2023,初公開 上瀧勇哲 昭和の軌跡1976~1989ごろの出小説 mujik夏川りみ 05涙そうそう

大和三郎丸の生い立ちを描く、小説・マイファミリー・シリーズ、お楽しみ下さい 

フィッシングライフ 上瀧勇哲 昭和の軌跡   №10           2023. 

小説 マイ・ファミリー 第四巻  「 海洋磯釣俱楽部の生い立ち 1 」

 小説竜神伝説と初恋 小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人
 小説「車イスの家族」 海洋の生い立ち 海洋の生い立ち  小説「他人の子」1~4  

  マイ・ファミリー 「海洋磯釣俱楽部の生い立ち
あらすじ 編

     はじめに 作者の私 上瀧勇哲の紹介

私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市に住んでいる。その上瀧名は市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。

上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。

そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者と、なるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎて名前負けしていると父母から良く言われた。

それで上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えてもらうのが大変だった。その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成まで大活躍した上瀧和則さんだった。

競艇の選手で日本一を決めるジャパンカップを2度制覇した名選手で年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。
そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから彼のことを良く聞かれた。私より年下になる和則さんは遠縁の親戚で、話のネタに欠かせない存在だった。

しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでもと言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気。これは母方の祖父に似ているらしいが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。

そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、そのペンネームを使い30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり豊かな米作りができた処。
そして三郎は人名、丸は所を表すので三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め、米作りに励んだ、と云うのが小倉藩の書物にある。

さて1950年、小倉三萩野三郎丸で生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。私という人間を形成してくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びを教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。
僅かばかりの時間の中で生き綴た、喜びと悲しみのステージを皆さんにアピールしたい。


登場人物

私と洋子ちゃんの結婚は昭和49年3月16日、私が24才で彼女が19才のとき。新婚生活は勤めている若松区の吉田印刷KKのアパートから始まり、会社の釣り部から海洋磯釣俱楽部へ繋がるストリーが、ここから出発する。

◎上瀧洋子 20才 妻
◎上瀧哲郎 21才 弟 TOTO機器釣り部
◎上瀧周作 19才 弟 TOTO機器釣り部
◎浦本英二 22才 洋子の兄 海洋磯釣俱楽部
◎ツタエお母さん  洋子の母 
◎西野 寿 65才 浦本家の親族
◎空閑敏明 45才 吉田印刷、平版機械 課長 私の全ての恩師
◎内田小二郎42才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部 相談役 私の釣り師匠
◎保里剛太郎40才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部 会長
◎東 登  45才 JR国鉄 海洋磯釣俱楽部 副会長
◎池田さゆり 吉田印刷所 事務所のマドンナ
◎柚木洋一 40才 吉田印刷所 専務 
◎吉田正人 42才 吉田印刷所 社長 
◎松田 勝 47才 宮崎県門川港、渡船船長 
◎都留正義 52才 九州礒釣連盟 初代会長
薮田敏郎 50才 九州礒釣連盟 初代事務局長
◎小路 隆 47才 九州礒釣連盟 初代広報部長兼 全九州釣りライター協会 事務局長
◎河村 博 51才 月刊 釣ファン会長
◎島本修一 29才 月刊 釣ファン社長
◎向井吉夫 51才 田川磯釣連合 会長
◎松井睦明 42才 中間市役所 二代目 北九州支部長
◎北野 孝 36才 TOTO機器 三萩野サーフ 会長
◎萩原金安 55才 吉田印刷磯釣クラブ 会長
◎中原健太 26才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部
◎中西和人 22才 住友金属 海洋磯釣俱楽部
◎畑間光男 49才 北九州サーフ協会 事務局長
ストーリー
  海洋磯釣俱楽部の始まり
吉田印刷磯釣クラブを解散し、会員独自の、自由な発想で活動できる釣りクラブを、若者達のアイデアで昭和51年3月16日発足
  全日本磯釣連盟から九州礒釣連盟へ
九州の釣り場は九州の釣人が守る。を合言葉に全磯連九州支部、西日本支部が解散、九州礒釣連が昭和52年、会員6000人発足
㈱ゴーセンと繋がる九州礒釣連盟
スボーッのガット・ラインで有名な㈱ゴーセンが、釣り糸分野に進出。広告を頂く月刊 釣りフアーン社長の河村博さんと九州礒釣連盟会長の都留正義さんが協力し、「LKG九州」をホテルニュー田川で発会式に参加
月刊 釣ファンと、ヤング鬼笑会
向井吉夫さん、菅沼定男さん他が結成した釣ファンの「鬼笑会」。年配者が多くなり、新しく信任した釣ファン社長 島本修一さんの基で「ヤング鬼笑会」結成に私も参加
九州礒釣連盟と少年少女釣り大会の始まり
都留正義九州礒釣連盟会長と薮田敏郎北九州支部長の発案で「海難海防講習会」と「少年少女釣大会」を小倉臨海公園で500人以上参加
九州礒釣連盟 北九州支部 若松地区の関係
海洋磯釣俱楽部は若松地区に所属、その地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤芳樹さん、20数クラブ320人以上の地区会員、その中の海洋磯釣俱楽部の活動は
魅力ある、月一度の月例会釣行と常会
(公財)日本釣振興会と海洋磯釣俱楽部の繋がり
海洋磯釣俱楽部、昭和の大会と記念大会
海洋磯釣俱楽部の総会と新年会
ファミリーフィッシング文化と海洋磯釣俱楽部
⑫海洋磯釣俱楽部20周年記念誌発行
⑬海洋磯釣俱楽部とサーフメイズJAPAN
⑭「世界でたった一つの花」海洋を愛した会員
⑮「九州の釣文化を貴めた人々」と海洋磯釣倶楽部
⑯海洋磯釣俱楽部50周年に向けて


 フィッシングライフ上瀧勇哲 昭和の軌跡 第四巻 

     海洋磯釣俱楽部のおいたち  前編1

                                     大和三郎丸 (上瀧


  海洋磯釣俱楽部の始まり

私と洋子ちゃんの結婚は昭和49年3月16日、私が24才で彼女が19才のとき。
新婚生活は、勤めている若松区の吉田印刷KKのアパート
2棟、16×32軒が入る、奥の2階に入居した。3LDKの公団のような立派な住まい。この中から新しいスタートを切ったのだが、ハネムーンベビーは女の子で1月30日生まれ。 若松区本町の倉内産婦人科で生まれた。これも、親代わりとなる洋子ちゃんの遠縁にあたる西野寿お爺ちゃんが、何もかもお世話してくれた。
新婚生活のスタートは、お爺ちゃんの知り合いの若松本町銀天街の家具店から布団店に始まり、必要な物、全て揃えてくれた。丸柏デパートではテレビに洗濯機、冷蔵庫など「常務と親友の関係」とかで値切りまくって買った、とお母さん。私は実家から衣類と釣り具ぐらい。
それでは生活できない、と洋子ちゃんのお母さんが色々な小物品を揃えてくれた。

そして男は仕事の世界で、披露宴に来て、お世話になった柚木専務と空閑課長には、仕事で返すつもりで一生懸命、勤め、しばらくの間は魚釣りなしで、仕事に専念した。
そのアパートから徒歩で3分が会社。昼は家でランチができ、通勤地獄から解放され天国で生活しているみたい。
それでも人間の習慣とはおかしなもので、朝6時には目が覚めるので、会社前の洞海湾から若戸大橋の散策。 若松魚市場側のお店、真浄のおばさんに声掛けすると「アラー、ジョーさんじゃない。結婚したそうね、おめでとう」とか言われ、側にいた長女も結婚し「後二人、残っているのよ」とかの話し。
店に、ときどき来る若松魚市場の仲買人の兄さん達は、相変わらず魚臭い格好で立ち話し。
この若松魚市場は今、建設中の北九州中央卸売市場に統合され、無くなるとかの話し。
若松も私の時代に入り、ドンドン街並みが変わってゆくのだが、その変化に付いて行くしかない事を感じながら、毎日の忙しい仕事があり、優しい妻と可愛い子供。それに、ときどき来てくれる、お母さんに、お爺ちゃん。そして頻繁に招待される浦本家の食事会。
若松に住む事で養子になった雰囲気だが、子供が生まれた事で尚更、可愛がって頂ける私達。
そのライフが二年過ぎた昭和51年の正月。

いつもの会社、新年会は丸柏デパート4階食堂借り切り、派手ではないが今年も国会議員の麻生太郎さんが来て挨拶し、少しぐらいのお酒が頂ける私。
隣りの社長が「いずれ総理になる方から、酒を注いでもらった事、シッカリ覚えとかなァー」とか。麻生さんがニッコリして「若者が多い会社はイイナァー。選挙のときはよろしく」と、もう一杯、注いでくれた。
その数年後、選挙制度が変わり小選挙区となるのだが、それでも吉田社長と麻生代議士との関係は続いた。

そして新年会の帰り道、空閑課長と保里課長のお伴で、再び行く二次会のベラミというお店。
課長が最近「通勤せんで良くなったので上瀧、付き合え」と、口うるさい。
その保里さんは元、若松高校ラグビー部キャプテンしていた。それで酒が凄く強い。
正直言って、ついて行けない私。
因みに、後で知る事になるのだが、保理剛太郎課長と若松敬竿さんは同級生なのだ。
その中に釣り仲間の中原さんと萩原さんが入って来て、もう、ハチャメチャな盛り上がり。
みんな魚釣り、好きな連中ばかりで、釣りの話しならイイのだが、私が聞きたくない話しがズラーッと並んでくるので、逃げたいぐらいだ。
以前、本誌で紹介した「年上の人、中野まゆみさん」から言われた言葉が今でも頭に、こびりついている。
「男の人は、ときどきお酒を飲んでウサをはらすのよ。貴方もイイのよ」と、若いとき言われた言葉が、そのまんま、この様なとき、想い出す悪いクセ。
しかし私はどうしてもこんな所、苦手。酒で自分を見失う事、したくない気持ちと、帰れば優しい妻に子供がいる。こっちの方が、よっぽど楽しい、何よりウサをはらす理由が一つもない今の私。今、絶好調だから。


そんな私を見て空閑さんと萩原の親父が「今度、会社の釣り部をヤメ、新しい釣りクラブを作れ」とか。何を言っているか、良く分からない。中原さんと保里さんが口調を合わせ「親和会が消える」とかの話し。 始めて聞いた。
酔っぱらっている人に聞いても、しょうがないので黙っていると、次々と会社の不満をもらす先輩達に上司。
皆で口を合わせればドンドン言える感じ。 私は意外と冷静、あまり飲んでないから。
空閑さんが「会社の親和会が無くなると、釣りクラブの補助金が消える」「それで新しい別の名前の釣りクラブを作れ、と、言っているンョ」 「そうなんですかと私」
「営業の〇〇がナァー」と、ここでは書けない言葉。加えて「近々、経理の近藤さんが退職とか、知っとるか?」と保里さんだ。
私「イエ、何も」
保里「責任取らされてナァー」と、深い意味ありそうなグチばかり。

私「イイ話しがないので3月に釣り大会しましょうか」「オゥ、ソレ、エエのう」と、萩原の親父が早速、乗った。 中原、保里さんも「蒲江か、津久見か、どこがイイか」の話しになり、やっとイヤミ話しが消えた。
すると空閑さんが「その大会に吉田印刷を入れるなよ」「みんな自前の大会ジャケの」

私「分かりました、聞いときますがシラフのとき、もう一度、決めて下さい」で、急に魚釣りの話しになり、 中原さん「初釣りは津久見でマダイが釣れた」
保里さん「今年、車の免許とったんで新車買う、それで蒲江にしょうか」

空閑さん「上瀧、新しい釣りクラブの名前、考えとけ」とかで、魚釣りの話しが盛り上がり、 隣りに座っているベラミの姉さん達、興味ありそうで「連れて行け」と中原、保里さんに詰め寄っている感じ。その後、タクシーを呼んでもらい帰宅が11時過ぎ。洋子ちゃんと1才の娘、裕美ちゃんがスヤスヤ寝姿見て遅い夕食。新年会帰りの事、何も聞かない優しい妻に感謝。

2月の土曜日の夕方、会社アパート隣りにある、若松二区公民館で会社釣り部の15人ほどが集まり会議。 会長の萩原の親父が中央の席にドカンと座り「ジョーさん、酒は、ないんか」
私「今日は、ありません。シラフで会議して、これから釣り部の事を、みんなで考えます」
空閑さん「皆も知っとるかも知れんが、会社の親和会が消えたので、釣り部は補助金なしの運営となる。それで会社の釣り部を解散したい」
保里さん「今、会社経営が良くない。親和会は全額、会社の補助で成り立っているので社長が必要経費削減し、皆の給料を支えたい、とかの会議が年末あった」
空閑さん「会社の趣味の会で年間200万。別に慰安旅行に新年会は全額会社持ちで一千万と、経理の近藤さんから聞いた」 「使い方が分からない交際費が多く出て近藤さんが責任取って退職する」
保里さん「それで釣り部も解散となるのだが、空閑さんが、せっかくの趣味の会ヤケ続けようと、オレも続けたい」と保里さんだ。
内田さん「全額実費の釣りクラブとなるので、名前を変えて再出発。そんときは会社以外の釣りキチも入れるような釣り部にしたい」
空閑さん「新しい釣り部は、若いヤツにしてほしいので、吉田印刷、釣部から抜け出した、チーム名にし、残れる者で考えてほしい」
保里さん「空閑さんが言ったイメージのチームカラーを、ジョーさんに任せるよ」
私「オレですか課長」
保里さん「貴方が一番若い、行動力がある、適任よ」
空閑さん「若いモンが新しい釣り部を作った方がイイ。任せる」とかの話しで会社の釣り部は解散した。公民館の使用料は別途、必要の公民館だが、今から釣り部の活動基点になる場所。

帰って、この話しを洋子ちゃんにしたら釣り部の名前、5つぐらい考えた。「ひびき灘とか、玄界灘の、海の地名はどう」と彼女だったが、すでに現存してある釣りクラブ名。
若松には、かの有名な若松磯釣倶楽部。私達が良く利用する、はまや釣具店には浜磯会とか仙人会、若潮釣倶楽部、坊主会と、お店の玄関前に掲げている木札を良く知っている私。

それならと洋子ちゃんが「海洋磯釣俱楽部は?
私、聞いた事ないので明日、課長に聞いてみようか。それと、弟達が入会しているTOTO機器釣り部の規約とか、全日本サーフとか、北九州協会などの色々な組織について興味があるし、伊木釣具店の店、前に掲げている全磯連西日本支部とか、矢野釣具店にはジャパンダイナミック磯釣連合とかの、大きな木札に40クラブもある木札の名前が色々。
これ等にある「釣りクラブの規約」に興味があるので、どうせなら仲間意識を深める規約まで考えたい私。それにふさわしいワッペンも欲しいので、これは洋子ちゃんに考えてもらい、色々と仕事以外の楽しい遊びが増えてきた。

そういえば洋子ちゃんが、先日「九州礒釣研究会、会長の小路隆さん」が、家に来た話し。
私は、この方、よう知らない。又、伊木釣具店の、姉さんから聞いた話しで全日本磯釣連盟の九州支部と西日本支部が解散し九州礒釣連盟を作る話し。
こちらはスポーツニッポン新聞で良く知る、都留正義さんに高橋さん。全日本サーフ事務局をする畑間光男さん等々関連してくる。
最近は、月刊 釣ファン誌を毎月買っているので、この本を読めば九州釣界の活動が良く分かるし、有名な釣り人に、釣りクラブの人々、九州釣界の事、少しずつ知りはじめた私。


そして二区公民館で釣り部の会議で総会することが決まり、交流のある釣りキチが集まり「海洋磯釣俱楽部」として決められ19763月、若い方ばかりの16人からスタート。
平均年齢28才の若者達が遊ぶ釣りクラブが誕生した。その会長に保理剛太郎さん。私は書記長となり会長のそばで、お世話係。
早速、私と妻のアイディアでワッペン作成。通いの、はまや釣具店に真新しい大きな海洋磯釣俱楽部の木札を作って頂き、お店の正面玄関に10ほどの木札の中に加えられた。
凄くイイ気分で、いつものように、はまや釣具店「新装開店セール」のチラシ作りに、大売り出しセールの販売員となり、売り上げ倍増の話しが聞けた。


 全日本磯釣連盟から九州礒釣連盟へ

そんな中、九州礒釣連盟発足に向けての話し合いが進められ、後に磯連の事務局長となる薮田敏郎さんの講義を聞きに行ったり、若松磯釣倶楽部がある伊木釣具店の親睦会に入会していたので、空閑課長のお伴で、筑前大島や藍の島、蓋井島の磯釣りなど、釣趣を深めていると、福浦朱竿さん若松敬竿さん、料亭伊藤屋の伊藤芳樹さん、駅前の木村歯科院長さんが「若松磯釣倶楽部の会員」さんで、貸切りバスや大型客船貸切りの筑前大島や、蓋井島、藍島釣り大会に参加し、有名な方の、釣りを遠目で見ていた私。
そのような繋がりを深めていたので昭和52年、九州礒釣連盟発足の創立記念の総会が北九州市の九電記念館に於いて初代会長に都留正義さん。事務局長と北九州支部長兼任の薮田敏郎さんがなられ、その後、このお二方からコキ使われるようになる私。因みに九州最大の組織として会員数が6000人。北九州支部では1600人。若松地区では19クラブ、320人ほどの一大組織となった。

その中に取り込まれた海洋磯釣俱楽部は、単なる遊びの集団で、近場釣り専門、何でもありの釣りスタイルだった。海洋磯釣俱楽部と、名前はデッカイのだが、これにふさわしい釣りスタイルが望まれた時代で、キャップに長袖シャツは磯からでも良く見えるオレンジ色。ベストはグリーンで決まり、冬場に着用するフード付きのヤッケも、綿の濃いグリーン色で統一され、全て海洋磯釣俱楽部のネームが入り、シャツとベストに付けるワッペンは、洋子ちゃんイラストのブルーの下地に九州礒釣連盟と海洋磯釣俱楽部の名前が入り、真ん中にユーモアのフグの絵が入ったワッペンを㈱ヨシカネさんで作ってもらった。
そして通いの、はまや釣具店さんで当時、流行ったGTOのマークが入った衣類。結構高かったが仕入れ価格で作ってくれた、お店のおばさんに感謝。その代わり私達はズーッと、はまや釣具店が続く平成まで、このお店を利用する事になり多くのメリットを頂けた。
そして昭和51,3,21, 創立記念の第一回大会はホームグランドの筑前大島の磯釣りだったが、海が時化で全員波止釣り、根魚で優勝が角谷さん、五匹の部、藤崎好夫さん、総重量の部、上瀧勇哲でした。そして一般を含めた創立一周年記念大会が福岡県鐘崎海岸のファミリー釣り大会。
要は今から家族を含めた釣りクラブの存在を考えていた保里会長に私達。
PRで毎日新聞と、RKB毎日放送のテレビ局が来て、映像を撮られ、その次の日の夕方、ファミリー釣り大会のニュースが7~8分流れた。まだ昭和52年から53年の事だった。
会計は藤崎さん。審査(検量)は浦本君。広報を兼ねた私で、毎月一度の月例会に、正月は新年会を兼ねた釣行会も入れ、若い方が多く出入りできる釣りクラブ作りを始めたばかりの海洋磯釣俱楽部は、昭和53年には会員27名となった。

 ㈱ゴーセンと繋がる九州礒釣連盟

私が釣り具メーカーさんと最初にお付き合いを始めたのが、㈱リョービというメーカーさんで、当時はロッドにスピニングリールのインストラクターという形で参加した。
その釣り人集団は、広島県から関西、そして九州の私達だったが、印刷会社と繋がる㈱南陽堂商店。この中にリョービ印刷機械販売部があり、釣りをしない副社長が後付けのような釣り具の交流があったので、私と空閑課長は4年ほどでリョービ釣具さんとの契約を終了した。と言っても新しいロッドにリールを頂けたぐらいのお付き合いだった。
それよりも㈱オリンピックとか、㈱ダイワ、この頃、勢いをつけていた鈎メーカーの、㈱がまかつカーボンロッド。そのような高価なものを手に入れる事ができないサラリーマンだった。
そんなときスポーツニッポン新聞へ、時々の原稿書きしていた私に、まさかの毎日新聞西部本社から「年に数度、釣行記を書いてくれないか」の依頼の電話。
「釣りクラブで毎月、釣行会している様なので、近場釣りがイイとの話しで、ターゲットはファミリー層」と、聞けたので喜んで書いた。この事で初めて原稿料が貰えた。
その事で私家に毎日新聞と読売新聞が入るようになる。ただし読売新聞は会社の最大取引先で無理やり購読、契約されたもの。
その事で読売新聞の釣り記事は全て小路隆さんが取り仕切っている事を知り、九州礒釣連盟の広報部長とか、全九州釣ライター協会の事務局長。更に㈱がまかつさんとか、㈱マルキューさんとの深い交流を持つ方で、九州釣り文化を考えると、これほど大きく存在感を貴めた人はいない。
そのような方と、いずれ、お付き合いが始まる事、まだ知らない私。

そして少しずつだが、ファミリーフィッシングと海洋磯釣俱楽部の月例会の投稿記事を書いている事を知った都留正義さん、九州礒釣連盟 会長から呼び出しを受けた。
北九州市門司区柳町に、お店を構える都留酒店。偉い人から電話を受けたので菓子箱持って行くと、奥の宅に通され、ここが九州礒釣連盟の事務所を兼ねているとか。たくさんのトロフィに賞状。バッヂが入れられた額もあり、凄い応接間というより釣りの部屋、中央にテーブルがありイスに座らされ驚きの室。魚釣りだけで、これだけ色々ある事を知った。まだ26才になったばかりの私。
都留会長が「これは全日本磯釣連盟の大会で、メジナの〇〇賞。シロキス優勝の文部大臣賞のデッカイ賞状にデッカイブロンズ像が、所狭しと置いてある。なぜか圧倒される釣りの室。
私など、まだ生まれてトロフィを貰った事ない。賞状は小学校と中学校で4枚ぐらい。みんな入選レベルもの。それで、都留さんの自慢話し。特に興味のある長崎県五島とか対馬、平戸のキス釣り。こっちは凄く良く分かる。同じような釣りをしているからだ。

奥様が冷たいコーラーと、ホワイト色のアズキの入ったカキ氷も一緒に添えて頂いた。
私の好きなものばかり。
「車で来ているので酒飲めんケ、どんな酒がイイかね。ウイスキーも、ワインもある酒屋ジャけんね」と、勧めてもらったが「私は酒が苦手なんです」とか言ったら「付き合いが出来んジャロー」とかで、少し叱られた感じ。
50代ごろの若々しい都留さんの声は張りがあり、凄く若い。
先日の九州礒釣連盟の記念式典の総会などで、遠くから眺めている私だったが、今日は目の前で都留さんが大きな目でジロジロ私を見て話す。釣りの中で今、一番興味があるのはデッカイ尺キス。その釣り場を良く知っている都留会長。その話しが聞きたくて、最近良く通う平戸島。
都留さん「西浜はイイよ、民宿、西浜荘があってね、ここで泊まって船を借りて沖に出て2527㎝、28㎝が良く釣れる」「上瀧クンは投げ釣り専門ヤケ、その前の小島の先端がイイ。磯から投げれるよ」 「そして、根獅子の波止に、隣りの獅子の波止。みんな港中、廻りがイイよ」とかの嬉しい情報。
都留さん「そうやった、先日、月刊 釣ファンの河村社長がね、上瀧クンに、何でもイイケ投稿してくれんかね、とか言っとった」
それと「上瀧クン、釣り糸は何処のメーカーを使ってるンかね」

私「ハァー、小倉三萩野にある常広釣具店さんで、全日本サーフ指定糸を巻いています」
都留さん「君は磯釣りも出来るし、船釣りもしとる。サーフ糸じゃ物足らんヤロー」
私「若松の、はまや釣具店でTOLの銀鱗とか使っています」
都留さん「今度、九州に㈱ゴーセンという釣り糸メーカーが入ってね、釣ファンの河村社長が専属のモニター捜し、してるンよ、君しないか」「スポーツのテニスラケットの糸を作っているメーカーでね、今度は釣り糸も作り、大阪では人気で福岡にも支店を出すとかでね、釣ファンに広告を今から出す、とかの糸メーカーなんよ」
都留さん「とりあえず河村さんが貴方に原稿書いてほしい、と言っているので、ソッチから始めてみんかね」 
私「いきなりでイインですか」

都留さん「スポニチ新聞でも上瀧クン、書いてるヤロー」「アンなモンでOKよ」
「今日はね、貴方みたいな若いモンが、九州礒釣連盟に入会してくれ、オマケに原稿が書けるのは凄イよ、ぜひ頼むよ」
私「ありがとうございます。今日は、イイ話しが聞けて、良かったです」
都留さん「今度、奥さんと一緒に来なさい。ご馳走しますよ」
 

それで帰りがけ、店にあるニッカのデッカイ・ボトルウイスキー1本貰えた。
「釣りクラブの宴会ときでも使ってくれたらイイよ」とかの、ご機嫌だった都留会長。
そして、この日から何かと、都留酒店に、行く事になる関係が築けた。
その事で妻と弟達の5人兄弟で関門海峡のカレイ釣り。今は釣りができない門司新浜岸壁で9枚のカレイに3匹のアイナメは、みんな30㎝オーバー。これを月刊 釣ファンに投稿したら、グラビア写真入りで4Pの記事が記載された。これが最初の月刊 釣ファンとの絆。


そして5月、北九州市小倉のホテル・ニュー田川の結婚式場ではないが、ここで初めて主催する、釣り糸の㈱ゴーセン、専務取締役の吉永さんに中山福岡営業所 所長、その立ち上げと、九州の釣り人にゴーセンの釣り糸を知ってもらう為に、九州礒釣連盟の各県支部長を招待したのが月刊 釣ファンの河村社長と都留正義会長だった。
そして釣ファンに投稿している有名な小倉浮竿先生と同じテーブル。本名は太田一二さんで小倉医療刑務所に勤める方。この方と㈱ゴーセンを応援する形で、最後までお付き合い出来た方。
そして出席した80名ほどの方々は、みんなLKG九州チームの会員となり㈱ゴーセンの石鯛釣り糸も、ここから始まる。その後、㈱ゴーセンはスポーツニッポン新聞が主催するオール九州釣選手権大会の共催メーカーとし、多大な貢献する事になった。その事で昭和から平成の始まりまで関係が強化された。

その事を知る私は27才。新婚時代かも知れない。そして、㈱ゴーセンの福岡営業所が開所し、九州での事業が拡大してゆくのだが、私は、あくまで釣り糸と繋がる部所となる。
㈱ゴーセンの主なラインはテニスやバトミントンで使うスポーツ用のラインが主で、釣り糸シェアーは2割もないと聞いた。その中で釣り糸シェアー拡大がテーマの「LKG九州会員」がいるのだが、私は、その中の一人として公認され、ここから、ゴーセンのインストラクター&モニター会員として活躍が始まる。
最初は九州礒釣連盟の各県支部長など多くいたのだが、やはり年輩者とか稿を書くハンディなどあり、大変なようで福岡支部長の有久さんや、佐世保の中島五郎さんがリーダー役で月刊 釣ファンに投稿する方々が多くいた。その後、福岡市に月刊 釣春秋、月刊 釣紀行という雑誌も登場し、その雑誌に投稿する方々も「LKG九州に会員」登録されてきたので昭和50年代は釣り糸のゴーセンの勢いは止まらなかった。その事で、私は長崎県対馬、浅茅湾の巨チヌ釣りを、竹敷で「渡船を開業した中村鐵彦さんと 釣研丸」と「民宿、海風荘」を利用した九州LKGの会員達は20数名。
みんな巨チヌのエースとして活躍する方ばかりで、初心者のような私はチヌ釣り苦手?。しかし浅茅湾の巨チヌに魅せられた九州LKG釣行会が、ここから多く始まった。
そして長崎県五島、福江の巨チヌ釣行会など、渡船や航空機を使ったLKG九州はテレビから雑誌などで度々紹介されるようになり、釣り糸のゴーセンの黄金時代を迎えていた。
それも、これも、みんな月刊 釣ファン社のおかげ。長―ィお付き合いを今だ深めている私は、もう40数年、仲間と㈱ゴーセン・ファンなのだ。

 月刊 釣ファンと、ヤング鬼笑会

海洋磯釣俱楽部を創立して、規約となるものを第1条から第33条まで作り、細かく指導要項を、まとめたものを冊子にしてスタート。
先の吉田印刷磯釣倶楽部から始まったものに、全日本サーフ、三萩野サーフクラブの規約や、TOTO機器釣り部とか、九州礒釣連盟などの色々なアイディアを総称してまとめ、私達が組織する会員に、みあった内容の規約とした。
要は、磯から波止、護岸に投げ釣り、最近はイカダ釣りも始めたから何でもありの釣りクラブ。
ベースは近場の釣りでまとめ、毎年の、お正月過ぎの新年会とプラスした総会で会員さんの考えを聞き、規約も少しずつ変えてゆくスタイル。 その中で私達の釣り場の多くが関門海峡。
まだ埋立てが始まったばかりの門司区、田野浦先の埋立は、先に沖の切れ波止が出来たところから始まり、陸から波止が延長され、切れ波止に繋がり、回った波止の中を埋立てる工法。
この始まりは昭和40年代から始まった。そのころは旧、日本陸軍の弾薬庫があった場所で、立ち入り禁止区域だったが、その倉庫が消滅された事で田ノ浦地域の磯場、岩場からのサーフで40㎝オーバーのアイナメにカレイが投げ釣りで良く釣れた。
私も入会していた三萩野サーフクラブの北野 孝会長の時代だ。


それから10年の時を経て、昭和50年代から、この地域はドンドン埋立て工事が始まった頃、海洋磯釣俱楽部のホームグランドとなり、ウキフカセ釣りでもチヌ、メイタ、クロ、メバル。サーフのキス、イシモチ、カレイ、アイナメ等、良く釣れた。いわゆる魚釣り天国だった。
又、小倉日明海峡海釣り公園も以前は切れ波止、渡船を利用して多魚種、大変良く釣れた釣り場。そして若松ひびき灘の広大な埋立地も、以前はバス通りからゴロタ浜の磯場に続き、沖に延びてゆく捨て石にテトラポット波止、今の運河となる基礎的な陣地という捨て石が沖に出来始め、両サイドから陸から伸びてゆく捨て石上に、デッカイコンクリートの波止が積み上げられてゆく景観を見、進めてゆかれる護岸の埋立地。
ゴロタ浜の藻場が一気に新日鉄や、各工場、企業から出るゴミの廃棄処分場となり、海が埋立られる工程を、私達は横目で見ながら、たくさんなクロ、メイタ、チヌ。そして根魚のメバル、アコウ、クジメ、キスなど釣りまくった、良き時代でもあり、海洋磯釣俱楽部の歴史の中に、その証が刻まれています。

その上で年に2度の磯釣り大会は月刊 釣ファンで読んで知った、向井吉夫先生の記事で知る四国、佐田岬半島の釣り場。大分県佐賀関半島の先端から出る九四フェリーにマイカーごと乗船し、愛媛県三崎港着。それよりマイカーで移動の佐田岬半島の突端にある正野港をベースにした、波止釣りから、幸進丸を利用した灯台下の磯釣りを仲間達と良くした。
正野港の波止はマキエで沸き上がるヒラスにクロ、関アジの大漁に、サーフのシロキスが尺キス。カレイの40㎝サイズが出る港内は夢の港でもありました。
そしてウマズラハギがタモで掬えるほど多い磯釣りで毎度36ℓクーラー満タン。
益田勝義さんはフカセ釣りよりカワハギをタモで掬う方が楽しいと、しょっ中、タモ係。
ウキフカセ釣りが上手でなかった、この時代の私達。もう少し微細な釣りを心構えていたらメジナ、チヌ、マダイのデッカイヤツが釣れていたかも知れないが36ℓクーラーは、いつも満タン状況、色々な魚が混じるからだ。

そしてホームグランドの筑前大島の釣りはシビアな釣りで、釣り人の多さに加え、磯と波止の荒廃がひどく、最悪なときでもありました。こちらの方は後日、紹介しますが磯釣り、波止、ウキフカセ釣りの最盛期の私達でした。
こんな釣行記を書いて投稿する月刊 釣ファンでは河村社長が、お付き合いの酒でダウン。奥様がキリモリしていたときでした。
このとき、娘さんを射止めた島本修一さんが、二代目の月刊 釣ファンの若社長になりました。
まだ昭和50年代のころです。この時代、大活躍していた菅沼定男さんや向井吉夫さん他、この後から登場してくる若松敬竿さん、高園満さん、他の彩る釣り人は、みんなウキフカセ釣りの方達ばかりです。その中で一番、私達に寄り添って稿を書いてくれた方が向井吉夫さんでした。
私は向井さんの書いた釣り場の8割以上釣行しました。絶対のファンでした。
大分県津久見、四浦の磯釣りは私達釣りクラブのホームグランドのような釣り場で年12回は釣行していた波止に、磯釣りでした。又、そのような港に瀬渡し船長さんが多くいました。
刀自ヶ浦の上野船長、大元港ひかり丸の神田船長さん、深良津港の吉本船長さん、蒲戸わこう丸の船長さん。そして一番長くお付き合いした赤崎港の川崎丸船長ご夫婦。本当にクロにチヌ、メバル、アジを良く釣らしてくれました。
海洋磯釣俱楽部の釣り大会で一番多く楽しめたのは津久見四浦の磯でした。
これも皆、向井吉夫さんが教えてくれた釣り場ばかりで、波止とか磯歩きの釣り場で35㎝のクロが今でも釣れるから、たまりません。まだ釣り具も釣り餌、仕掛けも安定してなかった時代、大ザッパな釣り、釣れた魚影の濃い釣り場として今でも人気があります。
ただし、昔のように何処でも釣りが出来る訳でもなく、釣り禁止区域、駐車禁止と立入りが出来ない区域が多くなりました。この時代は県道もなく、農道から釣り場に入っていた時代ですから、魚釣りは、いつも最高。
オマケに津久見ミカンが美味しい時でもあり、船長さんからのオミヤゲは、いつも津久見ミカンでした。そのような釣行記事を、せっせと新聞や雑誌に書いていた私ですが、月刊 釣ファンも時代の流れが押し寄せてきました。


第一戦で活躍した先輩の皆さんが結成した人気の「鬼笑会」が少しずつ衰退しています。
それで島本修一社長が、意を決して「ヤング鬼笑会」の結成を促し、なぜかしら私も、その一員に加わります。そのリーダー役に若松磯釣倶楽部の木原奴竿さん。ダイナミック磯釣連合八幡の清水隆夫さん、小倉の和田誠さん(足立磯釣クラブ)とか、芦屋町の金原さん等が加わり、編集をしていた信岡さんに尾田さんさんや、松崎義之さん等、お世話係で10数人の方で結成し、早速、トップ戸畑店でヤング鬼笑会のヤッケを購入し、第1回大会が大分県蒲江の屋形島、離れのイカダバエに私と島本さん、松崎さんと上磯し2535㎝クロが数枚キープでき皆さん、それぞれの釣好でイイ取材が出来ました。
2回目は四国、宿毛、武者泊りから沖の、○○にハリス3号がブチ切れ続出。
ハリス4号を持っていない。ロッドも2号では軟らかすぎてアウトで完敗。小さいクロをキープし、皆の釣好は良かったようで、これも本誌のグラビアに記載されアピールできました。

三度目は、博多の打越豊一さんのお誘いを加えて、リーダーの木原さんがお世話係で長崎県上五島、宇久島の渡船で古志岐三磯から帆揚岩、黒母瀬から倉島と、怖いぐらいの磯釣りでした。
私のような釣り人が、このような磯場で釣りが出来ているのが不思議なぐらいで、ようも、こんな「ヤング鬼笑会」に入ったと、驚きの遠征が限りなくありました。

まだ20代から30代に入ったばかりの私です。磯釣りの経験も大変ですが、大枚はたいて遊ぶ趣味の領域を超えていると私は感じましたが、雑誌社が求めている釣りのロマンを搔き立てる、これが目的の「ヤング鬼笑会」でもありました。そのような下地があるから、今があるのでしょうが荒磯釣りは、やっぱり3040代まで。

それ以後は宗像沖ノ島、鶴見とか蒲江、深島。そして離島の優しい対馬浅茅湾とか津久見湾に落ち着いて行くようになります。 20代から30代に大活躍したと言えばウソになりますが、月刊 釣ファン発「ヤング鬼笑会」は10年ほど主だった釣行会がありました。そのとき可愛がってくれた河村社長に奥様との絆、関係から更に若松敬竿さん、高園満さん、九州礒釣連盟の松井睦明さん、下村要一さんと繋がりを深めていくのは平成に入ってからです。

 九州礒釣連盟と少年少女釣り大会の始まり

北九州市若松で優しい妻をめとり、会社アパート生活は10年続き、若松人となりました。
その後、昭和59年に北九州市小倉南志井に自己の家を持ち転居します。
小さなマッチ箱のような中古家でしたが、次の年に北九州都市モノレール、志井駅が開業し、徒歩5分。
しかも希望ヶ丘団地550世帯がある街として、これから平成に入るまでの数年間で大きく変革し、都市化が進む街となりました。
その中で、まだまだ続く若松、吉田印刷KKと海洋磯釣俱楽部は、更に進化してゆくのです。 会社がある限り私は若松人で九州礒釣連盟の組織拡大の為に下支えする立ち位置にありました。俱楽部が存在する限りアクションが必要です。これには、それなりのパワーが必要です。
単一の小さなクラブだけでは計れない釣り人のパワーが必要になってきます。
行政と関りを持つとか、釣り具メーカーとの関係を深める事も大切です。 何より地域の釣具店さんとの絆をシッカリ持ち、同等に活動している釣りクラブ同士の連携プレーも大切になってきました。そのような活動は、まず釣りクラブ仲間達ができる事から始めました。
特に会員達が興味を示したのが海難救命救助です。我が身を守る、仲間を助ける、意味合いの意識改革です。その基を作ってくれたのが九州礒釣連盟の組織です。

創立まもない時から知り会えていた本部の事務局長であり、北九州支部長の薮田敏郎さんです。小倉石鯛クラブ会長などの肩書が多いのですが、薮田さんは商社マン、○○商事とかいった、会社経営者でもありました。その会社が北九州市小倉室町にありましたので、便利の良い玉屋デパートとか、その後に出来るスーパー・ダイエー店が、すぐそばにあるので、なぜか、立ち寄る事も多大あったのです。要は、ついでにとかチョット寄る意味合いもありましたけど、私にとっては大先輩で、都留正義会長と二人三脚で九州礒釣連盟を牽引した方です。
その方が連盟と支部を動かす海防訓練を始めました。門司海上保安庁とのパイプを持っていたのでしょうか、裏門司のカブラ島をベースにし、孤島をイメージさせ、ヘリコプターで救助するとか、海上保安庁の巡視艇からゴムボートが出て海難救助訓練。そして海岸では九州礒釣連盟の会員と一般400人の、大々的な救難救助訓練がありました。

海防部長されていたのが若松地区の、東亜若潮会の前川会長さん他でしたから、当然のように私達、海洋磯釣俱楽部の会員25人参加。このような釣り人レベルでの海難救助訓練は山口県を含む九州各県全域の支部で開催されました。これ等も薮田事務局長さん始め、都留会長が行政とか海上自衛隊などと、太いパイプを持っていたかも知れません。
釣り人が多く、磯釣り熱が高かった昭和時代は、海難事故が多発し、九州では最大の渡船、栄福丸の転覆事故や、荒磯からの転落。渡船の乗り降り。磯の夜釣り。そして渡船が磯に乗り上げるなどの渡船事故で釣り人が亡くなるケースが最も多かった昭和時代でした。
又、近場の波止や護岸。徒歩で行く磯場でも、冬磯は多くの釣り人遭難を、私達はテレビと新聞で知ります。その事による海防意識を高める為に九州礒釣連盟の執行部が、このような催しを数年しました。


そして、最も身近に始めたのが、「少年少女釣り大会」を重ね合わせた、海防講習会でした。1600人をリードする薮田支部長は、北九州市政とタイアップさせた北九州市小倉北区に臨海公園という海辺散策、釣り公園を以前から計画していました。海釣り公園を意識する北九州市、最初の釣り公園と重ね合わせた市民の公園遊歩道を5年計画で整備したのです。 その臨海公園で始めて1回 九州礒釣連盟 北九州支部主催の少年少女釣り大会を北九州市後援で開催しました。
お祝いを兼ねた来賓の谷伍平北九州市長、県議、市議員が来て子供達が300人以上に、それに伴う親から、お世話係の九州礒釣連盟の会員で総勢500人以上でしょうか。近くのグランドを借り切っての釣り大会は盛大でした。まだ何も分かってない私でしたが、この大会が毎年、この地で続く事になりますが、その中に必ず救命救助という講義があり、海上保安庁から消防、警察、レスキュー隊など、形を変えて今も続いているのですが、さすがに当時の九州礒釣連盟と支部の勢いはド迫力がありました。協力してくれる磯連の会員さんが多い上、小学校レベルの釣りキチの子供が非常に多かった。そして、後援してくれる釣具店の多さです。

北九州地域には300店以上の釣具店があり、その中で活動する九州礒釣連盟の各クラブが支部だけでも160クラブ以上もありましたから、会員が、そのお店を利用するのでスポンサーになりますし、景品も山盛りありました。何より釣り具問屋さんから釣り具メーカーさんの後押しもあり、北九州支部のみならず、山口県を含む九州各県で、このような「少年少女釣り大会」が爆発的に始まりました。そのイベント行事に関わる行政も、釣りブームを繁栄し、海釣り公園の必要性を考え始めた、まだ初期のころです。
このようなアクションを遠目で見ていた私でしたが、ベースは全日本磯釣連盟の九州支部、西日本支部に籍を置いていた有名な釣りクラブの役員さん。いわゆる私達のお手本を示してくれた先輩達でした。小さく、側でお世話係でしたが、中にはゴミ袋を持った磯連のベスト着した会員さんが長―ィ1㎞ほどの臨海公園、兼、遊歩道に散らかっている釣り人達のゴミを拾い、集めている事、始めて知りました。
筑豊地区から参加の直方荒磯倶楽部の会員さん。小倉地区から参加の小倉石鯛クラブさん。門司地区から参加の門司磯釣倶楽部さん。関門釣友会の皆さんなどで、クラブのユニフォームにベストに背文字が入りカッコイイ集団です。私達も、このような倶楽部を真似て海洋磯釣俱楽部のユニフォームを作ったのです。第1回大会からズーッと小倉臨海公園で少年少女釣り大会を重ねてきました。その中で少しずつ私達のクラブ、会員さんも、出来るところで協力という立場でアクションしましたが、やっぱり釣り全盛期時代で庶民的に活動している私達と、荒磯専門、釣クラブとはレベルが違います。先輩クラブについて行くのが常識で、参加型中心の北九州支部との関りでした。
その中で私が月刊 釣ファンに毎月投稿するようになり、主に海洋磯釣俱楽部が関門海峡で月例会をしている事を主に書いておりました。昭和時代は門司田野浦と太刀浦は、埋立て工事が進んでおり、釣りが出来ていました。その事でウキ流しのチヌからメイタ、クロ。サーフではシロキスからカレイ、アイナメ、イシモチに、ニベ、コイチと言われる魚達です。釣りに行けば10割で釣れていた私達の釣り仲間に、釣り場がありました。

そのような記事を、月刊釣ファンに書いておりましたところ、九州礒釣連盟、事務局長の薮田敏郎さんから声かけられ、小倉の会社に行きますと、早速、応接間に通され「支部の役職を一つしてくれないか」の話しです。
30才になったばかりの私に大先輩がウヨウヨいるところで、若いモンが入ったら、どうなるか、それに新聞、雑誌の原稿書きや、海洋磯釣俱楽部のお世話係も大変。その事が分かっていたので辞退。それに会社とか家庭のライフが大切。
九州礒釣連盟は、あくまで趣味の延長線にあるもの、その考えで辞退しました。
薮田さんが必要に迫ってくる感じでしたが、支部会員1600人から八幡地区のモメ事もありそうなので、こんなとき役員になったら大変な事になる。
それなら仕方ないかで、今度は月末、井筒屋デパートで朝日新聞主催、九州礒釣連盟後援の「釣り人展」と合わせ持って講習会があるので、ぜひ講師になってくれ、とかの話し。これは2日間あり各1時間、テーマは「関門海峡の釣り」
もう一方は、中間石鯛クラブの松井睦明さん。
次期、二代目の支部長になる方の講義は「ウキフカセ釣りのクロ釣り」で決まっているという事で、もう逃げきれないので、これは受けます。 土曜日と日曜日、昼の2時で講師役しました。
井筒屋デパート5階、催場には100人ほどの釣り人&釣り人展も開催というイベント行事。 皆の前で講師は、やっぱり馴れてないと上手に出来ないのですねェ。それでもシッカリ言えて、無事、責任を果たし。後日、この事が朝日新聞に掲載されていましたけど、良く頑張りました。
これも、今から始まる釣り文化の貢献と、釣趣を伝える新聞、雑誌。そして、テレビ化が始まってゆくプロセスにいた私でもありました。

 九州礒釣連盟 北九州支部、若松地区の関係

海洋磯釣俱楽部は昭和51年結成。その翌年に九州礒釣連盟が創立しましたので、海洋は創立クラブとして若松地区所属になります。
初代、地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤芳樹さんがなられ20数クラブ、320人以上の地区会員がいました。私は保理剛太郎会長の下で、お世話係、担当の者でしたが、ときどき地区会議に会長と共に出席し、大まかな活動は知っておりますが、これは保里会長がトップリーダーの海洋磯釣俱楽部でしたから私は話しを聞くだけ。この会議が年に5度ほどありました。
これ以外に忘年会とか新年会などの集いもありましたが、一番の目的は地区の大会です。
地元、若松ひびき灘には広大な釣り場があり、磯釣りとは異なる多彩な魚が良く釣れる事で第1回から第4回までしょうか、若松響き灘で釣り大会を開催しました。参加する会員さんは多く、毎度150人以上に、これに磯連本部役員参加の賑やかな釣り大会があり、豪華なトロフィがありました。近場の釣り、それもホームグランドのような、ひびき灘の釣りは、海洋磯釣俱楽部にとっては非常に有利で、毎度、海洋の会員さんが多く入賞。もしくは優勝などもありました。もちろん魚種別もあったので、何でも釣り切る特異性のモチベーションがあり、私達会員は少しずつですが、デッカイ大きな組織の中で活躍してゆく事が始まりました。


その中で地域に根ざした、他クラブとの交遊も盛んにおこなわれ、やっと若松磯釣倶楽部をリードする福浦さんはじめ伊藤さんや、若松敬竿さん、他のダイナミック若松の壇さん等との交流が始まり、ダイナミック磯釣連合と繋がるクラブ名が、みんなダイナミック黒崎、戸畑、小倉、直方、行橋となるのですね。そのような偉い会長さんが、若松地区の大会に特別参加され、盛大な釣り大会があり、若松地区はチームワークと近場の、ひびき灘という釣り場に恵まれ、九州礒釣連盟の組織を、最も充実させている地域として発展してゆきます。
その中に取り込まれた海洋磯釣俱楽部は、多様な釣りが出来る事で知られる事になるのですが、これは北九州支部185クラブの中でも特殊な釣りスタイル形式を持っている事です。
私達のクラブは、月に一度、月例会がある事。
主に近場の釣りをしている平凡な釣りクラブ。
しかも、投げ釣りスタイルも、磯連の中では少なく、ましては若松とか小倉、門司で良く釣りをしている事で九州礒釣連盟の対象魚となっているカレイ、シロキス、アイナメ、スズキ、チヌ、イシモチなどを釣る海洋磯釣俱楽部の会員さん。当然のように支部、地区それに連盟本部の釣り選手権大会でも入賞者が良く出ている事で、海洋の名声が高まる?のです。

それでも全日本サーフの会員さんと比較すると、ごく平凡な魚の大きさだから、この辺のところ張り合う釣りクラブが少ない、磯連特有の体質が有ります。ベースは渡船を利用した磯釣りでメジナに石鯛。そしてクロダイ。それに繋がるイシガキ鯛とかアラや、イサキ、マダイなどの対象魚で、これ等は、とてつもないデッカイのが、長崎県の五島列島とか男女群島。鹿児島県沖の南西諸島の離島。そして私達が時々通う四国の愛媛県佐田岬とか、高知県の宿毛などでデッカイ底物に、メジナにクロダイです。サンデーアングラーが多い釣り仲間達では、よほど幸運に恵まれないと磯の大物は釣れない。
その点、私達がターゲットにしている魚は、毎日の平日、仕事帰りでチョット竿が出せる釣り場で狙って釣れる、ほどほどの魚達。昭和時代は本当に何処でも良く釣れていました。

釣り気、ヤル気、時間があれば簡単にクリアできた魚達で九州礒釣連盟とか北九州支部、そして若松地区の大会でした。その事で海洋磯釣俱楽部の会員さん達は良く遊べていた時代でした。

 魅力ある、月一度の月例会釣行と常会

会社のコミュニケーション釣り部として始めた吉田印刷磯釣倶楽部は、年3~4度の釣行会 兼 釣り大会。それ以外は各人が勝手にメンバーを集めて魚釣り、遠征しておりました。
その風習から海洋磯釣俱楽部を新しく立ち上げるとき「毎月一度みんなで釣行会し、楽しもうヤー」の、私達若者の考え方を発案しました。

私や弟が全日本サーフ所属の三萩野サーフキャスティングクラブ入会していた時、このシステム、毎月一度の定例釣行会、年12回の総合重量賞は規定魚を決めて、月×12回×魚の重さで競うもので、参加する事で重量は増えます。
それをトータルし表彰する制度がありました。
当時の全日本サーフに参加する多くの投げ釣りクラブは、このような要素があったのです。 若人の考え方を聞いてくれた保里会長、以下、先輩が年12回一緒に釣りが出来、遊べる環境、これに年間を通しデッカイ魚を釣った会員に新たに賞がある、等のメリットを後付けし、海洋磯釣俱楽部の規約に年12回の釣行プラス、その中の2度を大会にする事。加えて表彰する場を設ける為に、総会とか、新年会、忘年会など、色々な名目を付けてヤル事を、年間を通して行うプログラムを決めました。
クラブの盛り上がりを色々なところでアイデアを出し、皆で考えます。
これで個人的な釣行会でなく、毎月一度の週末に1020人の会員が集まり釣りをする事で、仲間意識とか、釣りで学ぶ釣趣も上達してゆきます。もちろんポイントとか、釣り場とかも同等に共有するので、釣趣のレベルアップは確実にアップし、楽しい釣り会が膨らんでゆくようになりました。
特に釣りクラブに入会した新会員は、釣れる釣り場に案内してもらうとか、マイカーも同乗等、色々なメリットがあります。そのようなメリットを少しずつ規約に反映してゆくのです。

イイ事ばかりでなく、イヤな事も多大あります。
自己のマイポイントを教える事で、視点が狭くなったり、上手、下手の区別も差が出るのも仕方がない事です。個人差があるのも、どれだけ上手に釣るか、という釣りスタイルも同等に勉強しなければなりません。又、釣り具、タックル、仕掛け、エサ、マキエサ、色々な考え方で個人差があります。これも20人、30人参加の月例会では当然のように差が出てしまう事、多大あります。しかしながら、数年たてば一人前の釣り師として成長する仲間が多くいます。これも釣りクラブのより、良い姿です。
毎月一度の月例会を楽しみにし、会社勤めの励みとなり、海洋磯釣俱楽部は成長していきます。
その上で、上部団体の九州礒釣連盟、本部、支部、地区のプログラム参加も当然のようにプラスアルファーされ、月例会釣行も更に競い合い、プラス効果としての毎月一度の釣行会は、仲間意識を更に貴めた事で、釣行会に励みと、釣り仲間が増えてきた要素にもなりました。
その上で毎月一度の月例会釣行は常会で決めておりました。元になる海洋磯釣俱楽部の会員さんの多くは吉田印刷所に勤める方が多く、その他は親戚、会社仲間で組織されていましたから意外と物事がスッキリ決まるのですが、やっぱり保理剛太郎会長のまとめで、決めなくてはなりません。
また、大会とか、九州礒釣連盟とか、支部、そして地区、等の、決まり事やチラシ、パンフレットの配布など、結構たくさんのプログラムがありますから、やっぱり常会でシッカリ決めておくことが大切です。それで若松二区公民館で毎月一度の常会。
私などアパートの裏が公民館だから、便利。
弟達は土日休みのTOTOですから、私の家に土曜日から麻雀かねて遊びに来て常会参加。 深夜まで遊び、そのまま魚釣り行くのです。
若いときはアクションが凄かった。でも、それが楽しかった時代です。洋子ちゃん手作りのランチにディナーいろいろ。

海洋磯釣俱楽部の常会も、すんなり決まり、次は〇月〇日、釣り場は国東半島伊美港とか九州礒釣連盟の大会期間中なので平戸のキス釣り。色々常会で決まります。時間、帰り、乗り合い、出発は吉田アパート前に何時。色々あります。これらの事をチラシ、コピーするのも私です。
しかし、℡が早かったかも、その内、機関紙「海洋だより」の発行になります。そのような常会が保里会長の家とか、はまや釣具店になりますが、これは平成に入ってから。まだまだ昭和の時代は若松二区公民館がベースとなります。新年会、総会、忘年会も、していたのも公民館。良く利用していた私達でした。

2023.3. 第四巻 海洋のおいたち 中編2

 小説竜神伝説と初恋 小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人
 小説「車イスの家族」 海洋の生い立ち 海洋の生い立ち    
マイ ファミリー 第四巻
 小説  海洋磯釣倶楽部の生い立ち 1


             作者・編集・発行人 大和三郎丸 (上瀧勇哲)
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