小説「竜神伝説と初恋」完結 | 小説「年上の人」.1~4 | 海洋の生立ち1~3 | 小説「車イスの家族」完結 | 小説「他人の子」1~4 |
私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市に住んでいる。
その上瀧名は、市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、地名では、ありふれた名として現存する。
他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。
そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者となるのだが、これは祖母が、お寺参りで好きになった檀家としている正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎて名前負けしている、と、父母から良く言われた。それで上瀧も勇哲も学生の頃は嫌いで、名前を覚えてもらうのが大変だった。
その上瀧(じょうたき)名を、全国的にPRしてくれたのが昭和から平成の時代まで活躍した上瀧和則さんだった。競艇の選手で日本一を決めるジャパンカップを二度も制覇した名選手で、年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。
そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから、彼のことを良く聞かれた。
私より10才、年下で大活躍した選手、しかも遠縁の従兄弟になる関係で、今でも現役の競艇の選手会長をしている。その事で話のネタに欠かせない存在だった。
しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでも、と、言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しくて引っ込み思案、マスクも決して良いとは言えない母似であり、気性は短気で気が荒い。
これは母方の祖父に似ているらしいが、このことが幸いし、今の自分があるのかも知れない。
そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、今、活躍中のラグビー、五郎丸選手のように有名になりたい私である。
そのペンネームを使い30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉「三萩野三郎丸」の町名を検索してみると、鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり、豊かな米作りができた処。
そして三郎は人名、丸は所を表すので、三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め、米作りに励んだ、と云うのが私の推測。
さて、昭和25年、小倉三萩野三郎丸で生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。私という人間を形どってくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びを教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。僅かばかりの時間の中で生き綴った、
幼少期時代の、喜びと悲しみのステージを皆さんにアピールしたい。
北九州市小倉で有名な祭りは小倉祇園太鼓だ。
この祭りを全国に広めたのは、文豪、岩下俊作が書いた「無法松の一生」で、この話しは本当の実話に基づいて書かれたもので、岩下俊作も北九州市小倉生れである。
その小倉祇園太鼓は夏祭りに欠かせないもので、私が幼少のころは地域の片野町から、祇園太鼓の山車が出場していた。
太鼓競演会は7月の第三日曜日に小倉城で行われ、その一ヶ月前から町内で太鼓打ちの練習から、ジャンバラと笛をリズミカルに合わせ、いかに上手に太鼓が打てるかを練習していた。
その時期は子供の私でも太鼓が打て、小学4、5年生の同級生が上手にバチさばきを見せる技は、大人達から喝さいを受け、小さな子供祇園太鼓山車も出ていたのだ。
祇園太鼓の山車は高くなく、大きな太鼓が前と後、あるいは両サイドにあり、太鼓を中心にした賑やかしい飾りつけがある、その山車を大勢の人が三本のロープを引き、動かすのが今も続いている。
そのロープを引くのが子供達で、浴衣姿に文様が入った鉢巻、これだけでも楽しめたときだった。
そんな祭りの中心地が勝山公園とか市民会館前の広場、そして小倉城であるが、一帯には大きなやぐらが立ち、その周りの遊歩道には赤い提灯が両サイドに1m間隔に灯され、1㎞も続くことさえあった。その通りに欠かせない露店の多さは年を追うごとに増え、毎年の小倉祇園祭に参加するとか、行くことで知る。
そんな夏祭りが明治から始まり、小倉の風物詩となり、岩下俊作の小説「小倉無法松」の映画で何度も紹介されている。又、村田英雄が歌う小倉祇園太鼓「無法松の一生」が、全国的に有名になり、知られるようになった。その一コマに参加する私は、昭和25年、小倉三萩野三郎丸で生まれた。
私の父は北九州市八幡生れであるが、丁稚奉公した先が石屋であり、子供時代の苦労話しを良く聞かされた。12才から北九州市小倉南区の津島畳店で住み込み、職人さんとなったが、親の家計を支える為、白石の借家があった小倉三萩野の地に住み始め、三郎丸で店を構え、母と見合い結婚した。
そして私が生まれ、二才年下の弟、そして五才年下の三男が生まれた。
長男の私は、いずれ父の畳店を継ぐ運命ではあったが、時代の変化で畳店稼業は難しくなり、大半の店は消滅した。そのことを早く悟ったのは父の周りの人々で、結局は父の後を継がなかった。
そのような幼少期は歩いて10分の三郎丸小学校へ通った。
当初、一クラス45人で五学級あったが、それが年々子供が増え続け、六年生の時は一クラス55人、六学級となり校舎の増設が毎年続いた。小学校一年から三年生までは女の先生で、四年、五年は下田先生。六年は樋口先生、ともにカッコイイ独身の先生だった。
成績は中くらいで自慢できるほどでもなく、大人しい性格で目立たない存在。
ただし負けず嫌いは誰よりも強く、運動に関しては人一倍頑張った、と想う。
しかし家に帰ると一変する。私の兄弟は男。近所の子も男の子が多く、この時の遊びはパッチンに、ビー玉、それにハジキが遊びの中心だったが、これ等の遊びは、物が必要となり、買うことが求められたので、そんな余裕がない私達は、もっぱら自然で遊ぶことが多かった。
家の周りは田、畑ばかりで牛が田を耕し水田に川水が入ると、田にオタマジャクシからカエルが普通で、川ガニ、ザリガニはもちろん、田ブナやコイから、ナマズやドジョウが田に入り込むので私達は、それを取って遊んだ。
その事で農家の人々は、そのガキに神経をとがらせ私達は悪ガキと嫌われた。
その田に水を引く小川とか土ベタの水路には清水が流れ、その中に入り、ザルでこさぐと魚が10匹、20匹入ることが多く、中でも大きなフナやコイ、ドジョウは食用にすることもあった。
その広い田んぼと、小川そばに三郎丸小学校があり、道路を隔てて流れる小出川は、魚取りの宝庫で、私達は、この三級河川で良く遊んだ。
ただ、田に水を入れる為に、水門を閉ざすと川幅が広がり、水深が2m、3mとなるので危険でもあったが、その川門そばでは大きなコイを釣る釣り人がたくさんいた。
そんな遊び場から50分ほど山手に歩くと足立山があり、森林公園とか忠霊塔、その上に妙見神社などもあり、これらの広場は山菜取りの人々が多く来て、山芋、アケビ、タケノコ、私達は野イチゴを取って食べた。そのような自然は私達の遊び場として、近所の子供達と良く遊びに行った。
小学三年のとき、級友の親が小倉炭鉱に勤めていた。
その住家が炭鉱そばにあったので良く遊びに行った。その家はボタと言って、良質でない石岩を利用した暖房から釜戸を持っていたので、いつも暖かくその家で遊べた。
そのボタで焼いたモチ菓子や焼き芋などを、ここで良く食べさせてくれた。
その借家長屋が小学校の広さぐらいあり、その山際に小倉炭鉱の櫓がそびえ、周辺は真っ黒い土地でおおわれ、緑が全くなかった。
その黒ベタの土で缶ケリとかナワトビ、カクレンボ、馬乗りなどが、遊び方で、一日そこで遊ぶと真っ黒くなって家に帰った。
そんな小倉炭鉱から汽車の駅がある城野駅まで、炭鉱トロッコ汽車があり、黒煙をはきながら石炭を満タンにしたトロッコを20も30台もつなげ城野駅まで運ぶ景観を良く見た。
さらに、その汽車が小倉方面、あるいは大分、日豊方面に運ばれて行くことを後日知った。
私達が住む三郎丸から足立山のふもとにあるトロッコ路線は、私が中学生になるころは消え、大人になるころには四車線の県道に変わった。
遊び友達が多い中、我が家に父の妹になる益田ファミリーが一緒に住むことになった。
従兄弟になる長男の勝義、次男の賢造、三男の明信、四番目は長女のシゲノが、私と同級生となるので、男はみんな私より年上となり、いつもそばに年上の従兄弟がいた。
そして二軒隣りに和田兄弟がいて、弟が私と同級生。兄はパッチンの名手だった。
他に海老根ファミリーが、二家族、六人の子供がいたりして、近所に子供があふれるほど多くいた。
そんな子供の世界でも、親分とかリーダーが存在していた。
そんな遊び友達の中でもグループがあり、派閥でケンカする事も多くあった。
私が小学四年のとき、なぜかしらグループの補佐をしていた従兄弟の益田勝義に誘われドンドン山に登った。そのドンドン山は家から150mほどの所にあり、高さ12mほどのロバの背中のような小高い山だった。その裏地が墓所で、その周辺が泉寺としてある場所。
そして、ドンドン山を削り六車線の13間道路が造られたことで、残った山を私達はドンドン山と名付けた。その山は戦時中、作られた防空壕が四ヶ所掘られ、その穴にルンペンみたいな人が住み込んでいた。あまり近寄れなかったが、私より年上の子供達が、この山で遊ぶようになり、この山も段々と変化し、緑が少なくなり、ほとんどハゲ山となった。そのドンドン山の頂上は、家一軒ほどの広場があり、ここから山スキーとか、肝試しの飛び降りをして遊んだ。
そんな遊び場で決闘があることを知ったのは、私より二つ上の益田明信から聞いたのだ。
ケンカの相手は下畑とかいう長屋の中学生で、こちらのグループは地の人間でなく、多くが流れ者のような存在だった。一方、私達は地の人間という関係で、どうやら長男の益田勝義が兄と慕う高校生の海老根と、下畑部落の悪ガキと争ったのが始まりらしい。
そのことで私達も15人ほど集められた分けだが、相手はもっと大人数というか、不良グループのような者がやって来て、山の上で大ゲンカとなった。私達のような子供では何にもできないので、明信と私は山から飛び降りて逃げた。そのケンカで益田勝義と海老根は顔に赤いアザをたくさん作り、一週間、学校に行けなかったそうだ。
このことを仲裁してくれたのが、私の従兄弟になる白石和夫、彼は小倉高校の剣道部に所属し、この辺では一番身体が大きく、又、下畑部落の近くに住み、大家という肩書で、すんなり、このケンカをまとめた。この決闘のおかげで数年、グループのイザコザがあったようだが、私は小学生、ほとんど関わらなかった。
それに父親が畳屋をしているので、近所から畳の注文をもらうことで、変なことは出来ないのだ。それに父の姉にあたる、おばさんが白石家の次男に嫁いだことで、三郎丸の大地主である、白石家兄弟、四軒との関わりがあることも含めて、上瀧という肩書は複雑なものがあった。
ちなみに親父の妹婿が益田家、そのファミリーと三年ほど私の家で同居したのだ。この従兄弟と遊べたことが一番の思い出になる。
私の母、ヨシエは、牛島栄六が父の、長女で、祖母は牛島千代。
二人は佐賀県神埼郡神崎から北九州市の官営八幡製鉄所に入り、その後、小倉守恒で酪農、農業を始めた。その長女の母の下に弟が四人いた。
そして上瀧松義(父)と見合い結婚し私が生まれた。
牛島家の初孫として生まれた私は、お爺ちゃん子だった。そのお爺ちゃんの家は、北九州市小倉守恒の山だった。江戸時代から続く小笠原藩の穀倉地帯だった守恒の田園風景は、緩やかな山地から続く北西は、黄金色に輝く蒲生の郷があり、戦国時代から続く豊前国、細川、黒田、小笠原藩を支える一大穀倉地帯だった。その対面にある南側は小高い山並みが続き、清水が湧き出る森林が続いていた。
私が生まれた時代は、筑豊炭田、田川に続く国道332号線があり、三郎丸の家から20分歩いた西鉄電車、いわゆるチンチン電車の片野駅から、終点の北方駅まで乗る電車賃は、子供は10円。
そこから小倉北方、陸上自衛隊前を通り、テクテク歩いて30分ぐらいで日の出バス停近くに数件の酒屋があり、ここから守恒の山並に向かって歩くと、細い農道から山道に入るころに最初の池がある。
小学校が三つほどスッポリ入る池の導流堤に沿って、斜面上に緩やかな畑道は祖父母が作っている白菜に、大根畑がつづく。そして300mほど登り、やっと祖父の茅葺の家が見えるころ「モゥー」と鳴いているのが聞こえると、すぐに「ワン、ワン」と吠え、迎えに来てくれる太郎。
中型犬の黒い犬だが、人懐っこく私のホッペをペロペロなめてくれる。
早足で進むと息切れする登り坂だが、それを掻き消すようにブタ舎から「ブゥ、ブゥー」と鳴き騒ぐブタの群れがエサをくれと言っている。来がけに拾った野菜の端やイモなどを小ブタに投げてやると、15匹ほどの小ブタが我先に食いつき戦っている。それで、もっと「クレ」と催促する親ブタ。
そんなブタ舎が4つ並び、いつ来ても、ここだけは賑やかしい。
そして、家に向かう赤土の通路に入ると、コッコッ、バタバタ、「コケコッコー」と鳴くニワトリが500羽ほどが入るトタン屋根の鳥舎が二棟あり、最近違った赤茶色の鳥が、盛んにエサをクレといっている。それで、そばに落ちている貝殻を細かく砕き、投げ入れてヤルと、これも奪い合いの戦争だ。そのニワトリ小屋に赤いタマゴが足下に時々落ちているのだが、白いニワトリが白いタマゴ。赤茶のニワトリが赤いタマゴと、このとき覚えた。
そんなエサやりをしているときも愛犬、太郎がワンワンして、ニワトリを威嚇している。私の一番の家来として威張っているかのようだ。
そして大きな石を組み合わせた井戸そばに、透おじさんと、千代おばあちゃんが大根とイモを洗っていた。「よぅ来た」「よぅ下から上がってこられたなぁ」と、透おじさんが喜んでくれた。
透おじさんは、私の母の弟で、一番私を可愛がってくれる。
すると、おばあちゃんが「戸棚に勇ちゃんの好きなビスケットがあるので食べなさい」と言ってくれて、家の重い木戸を半分開けて入ると、家の中はまっ暗。それでも大方の場所は分かるので、ポケットに10コほどビスケットを入れて再び、透おじさんのところに行き「遊んでもらえないか」の催促をするが、やっぱし仕事中は無理だった。
それで母屋隣りの牛舎に入ると「モゥー」と大きな乳をブラ下げ、鳴いている乳牛が5頭ほどが、私を見つめる。あんまり大きすぎるので怖いのだが、長いワラをやったり、そばにある草をやると、すごく喜び食べてくれるのが嬉しい。
しかし、透おじさんが気を使い「そこには入るなーョォー」と大きな声がするので再び、そこから出る。そして「勇哲、ニワトリのエサを作ってクレ」ということで、アサリ貝とかのカキガラをバケツに入れてくれ、それを平たい石の上に一つ、二つ並べ、小槌でバチン、バチンと割ることを教えてくれた。それで、バシン、バシン砕く音が実に面白い。これをもっと小さく砕き、野菜と肥料などと混ぜ合せ、ニワトリの栄養剤にするのだが、おじいちゃん家に来たら必ずこの作業を一時間はするのだ。
その後、畑に出て思いっきり遊ぶ、といっても私の遊びは自然と遊ぶことしか知らない。
その中でも特に山水が湧き出している小さな滝下に、おじさん達が作った、露天風呂を大きくした溜め池があり、その溜め池下に繋がる小川で遊ぶ。
小さな溜め池は岩盤で、岩の間から山水が湧き出て小さな滝のようにして流れ落ちる、夏場の今は冷たく、凄く美味しい水だ。
その溜め池にスイカやウリ、トマトがいつも浮いており、好きなだけ食べていいのだが、小さい私は、その池に落ち込んだら大変なので、その池から注がれる小川で遊ぶのだった。その小川の中で、ザルで掬えるウナギとかドジョウ、イモリ。
特に大きいのがサンショウウオの80㎝サイズだ。小さい私が見るサンショウウオだから、もっと小さいのかも知れないが凄く大きくて怖いのだ。
しかし、何にもしなければ襲ってこないし、なによりサンショウウオの方が小川の土手隅に入り込んで分からなくなる。ザルで掬う小ブナや赤いフナなどは入れ食い。
一番良いのはザリガニとか川ガニ。大きなヤツは、じいちゃんが食べるので出来るだけガンバッて捕る。しかし、それを素手で握るのが怖くて、いつも逃がしてしまうのだ。
今日は小さいザリガニを10匹ほど取り、水ガメ池にリリースしておき、大きくなってから、おじいさんから取ってもらうつもりだ。
そんな遊びをしていたら、長男の伝之助おじさんが大根畑からやって来て、滝ツボに浮かんでいる「スイカ切ってやろう」ということで、一番大きな旨そうなスイカを切ってくれた。
「うまいか」 「ウン」 おじさんは身体がデッカイので、残った大きなスイカをみんな食べてしまった。そして「勇哲、大根持ってクレ」ということで、私の腰ぐらいある大きな大根の葉っぱを握り、ゾロゾロ畑からリヤカー側まで持って来る。
そして積み込みをするのだが、リヤカーの高さまで持ち上げきれないので側に置いておくと、おじさんが「ヨゥ、ガンバレタやないか、力強くなったノォー」と喜んでくれ、それで又、遠くから大根を引っ張って持って来る。
正直、ゾロゾロ引きずってくると大根にキズがつき商品にならないのだが、それはそれで家畜のエサにするので問題なく、私をこうして遊んでくれていることを数年後に気付いた。
そんな手伝い、遊びをしながら夏の夜は暮れるのだった。
今日は、おじいちゃん、農協の寄り合いがあり帰ってくるのが遅い。
それで、みんな暗くなるまで仕事だ。一人ぼっちの家。イロリの前で寝そべっている暗い室。20Wの、はだか電球一つの、リビングというかイロリ室は18畳ぐらい。その前の土間で、千代おばあちゃんが大きな鍋で焚き物をしている。大きなハガマは、ご飯ができて良い香りがしている、もう一つの釜戸は熱湯を沸かし、うどんをご馳走してくれると、千代ばあちゃん。
千代おばあちゃんの、うどんは鶏肉が入り、生タマゴが入るので旨いのだ。
そして、おじいちゃんが8時過ぎ帰ってきた。「オーゥ勇哲、来てたかァ」と、抱っこしてくれて嬉しいのだが酒臭い。
又、酒を飲んでいるようで、寄り合いのときはいつも酒会なのだ。
みんなが顔をそろえた午後9時に、やっと夕食が始まる。私はいつも、じいちゃんの膝の上に座らされている。そして大きな声で皆にガァガァ言っている、おじいちゃんだ。
だるま焼酎を飲みながら長男の伝之助おじさん、次男の透おじさん。三男の博おじさん、四男の昭おじさん、みんなで6人、私を入れて7人だ。
そして、ホウレン草に、鶏肉のオカズに大盛りうどん、ご飯、タクワンの漬物とか、白菜の漬物、カブ漬け酢の物、ラッキョなど、ほとんどのオカズは全て、千代おばあちゃんの手作りだ。
今日も、おじいちゃんは酔いつぶれ、高いびき。私は、その隣で寝るので、もう寝られないのだ!!それでも朝早くから遊んだので、疲れから寝てしまった
私は夏休みの宿題で、一番朝日が入る東側で勉強。といっても15分で終わりそうなのだが、一応はカッコつけているつもり。
その勉強机も、おじいちゃんがミカン箱を改造し、作ってくれたものだった。
今日は「鎮守の森」に行くつもりで早々に家を出て、裏山に登る。その途中にブドウの木、イチジクの木があり、柿とかミカン、キンカンまで何でも植えている、おじいちゃんの趣味の山だ。
その頂上に大きな松の木が20本ほどあり、中央に家二軒分の広場。その端に小さなホコラを祭っている、それが鎮守の神様だ。その広場の中で一番大きな杉の木の枝に、透おじさんがブランコを作ってくれた、これが私達の遊び場なのだ。
そして、近くに住む横山のガキ大将が来て「オッス」。子分の後小路のガキを4人引き連れてきた。
それで私は子分になる分けだが、イジメられたら怖いので、その大将と缶ケリとかチャンバラなどして、しばらく遊ぶ。
そして途中から抜け出し、その先の山道をさらに奥に進むと広い野原があり、その野原に牛が20頭ぐらい放牧されている。その野原の下には二つ目の大池が望め、ここの牛は竜神池の向こうの牛舎の牛で、大きな牧場を持っているところだ。
その山の斜面上には鉄条網が張ってあり、こちら側に牛が来られないようにしている。
そのことで私達はその鉄条網の中に入れない。だから私達の縄張りはここまでとなっている。
そんな景観が数年後なくなり、この土地を、おじいちゃんが買ったことで、この地に新しく、おじいちゃんの家が作られることになった。それが小学5年生のころだと想う。
新しい、おじいちゃんの家は、基礎と骨組みを棟梁がおこない、残りの半分は、おじいちゃんと家族が作り、装飾はおじいちゃん、こだわりの表具師が入り、畳は父が入れた。
そして次の年、もう一棟建て増し、そこに、おじさん兄弟夫婦が住み、賑やかなファミリーがあったと想う。その頃になると、夏休みに来て遊ぶ悪ガキが転校し、新しく近所に桜井さん家族が借家に入ってきた。二人の兄妹で、兄が私と同級生。
妹は二才下の小学二年生だろうか。都会育ちの桜井ファミリーは、とにかく私は魅かれた。
そして、すぐに仲良しになり、夏休みでなくても日曜日は、わざわざ電車に乗って守恒に来るようになった。もちろん母からの言いつけで、おじいちゃん家で仕事の加勢をしておいで、という事で、一石二鳥ということだった。
桜井、兄妹との遊びで、もっとも良く出掛けたのが、山水が落ちてくる、じいちゃんの溜池。
その池に冷やしてあるウリやトマトが目的ではあったが、そこに住むサンショウウオとかタブナやコイ、ザリガニ、川ガニを取って遊ぶことだった。
特に川ガニは食料としても美味しいので、おじいちゃんの大好物なのだ。
それ等や、30㎝もある野ゴイもザルアミに掛かりバシャバシャして中々捕れないのだ。
その小川から続く下池の権現池、通称(カッパ池)は、危険なので行かないのだが、その池に続く小川はドロ地で、ドジョウやウナギの稚魚が多く、ザルで掬って良く取れた。
その当時は、これ等の魚は遊びの材料でしかなかったから掬っては捨てた。それよりは食用になるザリガニとカニを私達は良く取った。
桜井ゆりちゃんは、シジミ貝を多く取り、家に持ち帰ると、お母さんが佃煮にして、おすそ分けを良くしてくれたので、ゆりちゃんが拾う貝を私は良く取った。
小学校五年の春休み、一週間ほど牛島のおじいちゃん家に遊びに行った。
古家そばに牛舎は無かったが、相変わらずニワトリ小屋には「コケコッコー」がバタバタして玉子をたくさん産んでいた。その玉子を狙ってイタチが頑丈な金網を食い破り侵入し、玉子だけでなくニワトリを食い殺すことも良くあった。
又、イノシシも多く、じいちゃんが作るイモ畑も荒され大変だったが、少しぐらいのことは仕方ないとされ、「獣が多いので注意セェーョ」と大人達から良く言われた。
その中で番犬の太郎が、いつも私達のそばにいて、仲良しの桜井兄妹と、ニワトリのエサやりとか、小ブタのエサやり。最近は試験的にヤギが五頭入ってきた。
それらの動物にエサなどやって楽しむ春休みだった。
天気の良いある日、桜井直樹くんの同級生が、竜神池の向こうにあるので、遊びに行くことになった。いつもの山道から降りる竜神池と権現池、通称(カッパ池)、その間にある農道は、今から行く大地主の近藤家の乳牛がこの辺を利用し、導流堤は、その乳牛達の通り道として利用されていた。
その道は、すごく近道になるが、両サイドの池の斜面は、転げ落ちたら子供の私達は助からない。
それで、この道は普段通ったら危険な道として「行くな」と言われていた。
しかし、今日は桜井直樹くんが「近道だから行こう」ということで通った。
ゆりちゃんが「兄ちゃん怖い」と言って後にピッタリついて行くのだ。そして無事、近藤家に行く。
昔、たくさん居た乳牛が数頭になり、時折「モーゥ」と鳴くのがカワイイと、ゆりちゃん。
その牛舎を通り過ぎると近藤くんの家があり、高い土塗りのヘイがあり大きな門がある。
その門をくぐり抜けると大きな家があり、新一が出てきた。
悪ガキのようであったが、顔と身体がチグハグで、少し話すと、すぐに仲良しになり、家の前の広場でパチンコ、パッチンを始めた。
都会っ子の桜井直樹くんはパッチンがヘタなので、私が近藤新一くんのカードを20枚ほど取っては、直樹くんに渡していたが、すぐに敗けしてしまうのだ。とうとう、かばいきれなくなり、私達は手持ちのカードが10枚になり敗けた宣言。
奥の方から近藤くんのお母さんがジュースと菓子を持って来てくれた。
すると奥の方から近藤のおじいちゃんが出て来て「元気がイイなァ、悪ガキ」と言ってくれるが、私達はガキではないと想っている。
しかも「ガキ、ガキ」と、あまり言うので少々気分を悪くしているのだ。そんなこと全く気にしない、じいさんが「イイこと教えちゃる」と話し始めた。
その上、桜井くんを指さして「そこのガキは、この辺のガキじゃないな」と言い「お前達が通って来たその池、昔は竜が住んでいたんジャー。
下池にはカッパもおったんジャ。」「今でもオルゾ」と冷やかす。
驚かせるので、ゆりちゃんは直樹くんの背中にピッタリくっついて離れない。
縁側に座り「又、いつもの話しかァー」と近藤新一くんは言うが、私達は知らないこと。
それに竜という話しに凄く興味がある私と直樹くん。そして、じいさんの話しが始まる。
昔の話しだが、上池の奥の山に、竜が住みついており、毎日、池の水を飲みながら私達の生活を見ていたそうだ。それで時々、人間どもをいじめたりしていたんだ。
その竜は雲を呼び、風を起こし、雨を降らし、池の水を溢れさせ、下の田は、しょっちゅう水害を起こし、村人は大変な目にあっていた。それを見て、意地の悪い竜が喜んでいたそうだ。
それで村人達は上池の竜神池の土手を少しずつ積み上げ、高く盛り上げることをしながら水害を、防いでいたのだ。それが今のように高くなった上池の竜神池なのだ。
しかし竜はそんなことお構いなく、池の水を溢れさせ、田畑を水浸しにさせ、大切な稲を流してしまうので、周辺の庄屋衆が集まり相談し、下池を作ることにしたのだ。
そして、5年がかりで村人達は権現池を作ったのだ。通称カッパ池とも言うがナァー。
怒った竜は雨を降らすのをやめ、二つの池を飲み干し、カラッポにしてしまったんじゃ。
雨が降らないことで村人は水不足に悩み「竜が怒ったんだ」ということだった。
この話しは江戸時代の文献にも書いてあるのだ。
豊かな守恒、その先の蒲生田があるのは紫川のおかげもあるのだが、その少ない川水を奪い合う農民を見て、竜は凄く面白がった。雨を降らすどころか、この年は台風が何度もやって来て、家を捨てる村人もたくさん出て来たんだ。
それで米が作れない、年貢が小倉城に納められないことで庄屋達は、事のしだいを城代に報告し、年貢を免除することを願い出たが、認められなかったんだ。
それで困った庄屋衆は雨乞いの祈祷を三日三晩続けてみるも雨は降らず、凶作が三年続いてしまった。その間、少ない川水を奪い合う村人達の戦いが絶えなかったそうだ。
そして村人の多くが食べるものが無くなってゆくんだ。その上、少なく取れた米も、年貢で持って行かれることで、困った庄屋衆はモリツネの巫女に祈祷してもらったんだ。
すると、その巫女が「竜は、お前達が悲しみ、苦しんでいることを喜んでいる」「竜の機嫌をとり、遊べる子供の生け贄を捧げよ」の願がおりたんジャ。
その方法として「今、干し上がっている上池の竜神池に10才の子供の人柱を立てよ」と、お告げをしたんだ。それで、庄屋衆と村人の代表と10才の子供を持つ親が全員、竜神池に集まり、クジを引いて決めることになったんだ。その中に庄屋の権現の娘もいたんだ。
38人いた10才の子供達の親、38枚の紙の中に、たった一枚だけ「竜」と書かれた紙を引いたのは、なんと庄屋の権現だったんだ。
普段から男義の強い権現は、一人娘の、かし子を、干し上がった竜神池の中央に立てた柱に括りつけ、泣きじゃくる、かし子のそばで三日三晩そばで見守っていた庄屋の権現だったそうだ。
そして、竜が風を呼び、雨を降らせ、真っ黒い雲と一緒に山の谷から大洪水のように水が押し寄せ、一気に、かし子と権現を呑み込み、上池を溢れさせ、かし子と庄屋の権現は命を捧げたのだ。
そして、その水が下池から村人の田に溢れるように水が注がれ、この年は大豊作になったんじゃ。
庄屋の権現と一人娘の、かし子は親子愛で繋がる神として「下池は権現」「上池は、かし姫池」と昔は、そう言われていたんじゃ。そのようなことで、「雨が降らず、凶作が続くと10才の子供が人柱として度々竜に捧げられた」、ということが伝説になったんじゃ。
その後、人柱をする事は無くなったが、その代り竜神池で事故死する子供が増え、今でもその事が続いている。分からないことだが「池に住む竜が子供を欲しがっている」と、その伝説が今でも残り「お前達のようなガキが、この池に引きづり込まれることが今でもある。
そのことを忘れるな」それで「ガキども、池の道を通るなよ」と、きつい言葉で、叱るように言う、近藤君のじいさんの話しは終わった。
春休みが終り、五月に入るころ、ビックリすることを聞いた。
母が、透おじさん(牛島透)から聞いたのだが、近所の子が竜神池で死んだので、勇ちゃんも、じいちゃんの家に行ったら「池に近づいちゃイケンょ」と、注意された。
私、それで「どこの子?」
母「ハッキリせんけど女の子と、言っていたょ、透が……」もしかして「桜井ゆりちゃん?」とは想わなかったが、なぜか不安。
私家には電話がないし、おじいちゃんの家にも電話がないので行くしかないのだ。
もしかして、の、不安はあるものの、私はまだ子供だ。
ただ将来、桜井ゆりちゃんは私のお嫁さんにするつもりなので、一大決心して次の日曜日、守恒に行くことにした。朝早く片野から電車に乗り、終点の北方車庫、小倉陸上自衛隊前で降りる。
ここから守恒、日の出町まで歩くのがキツイが、電車賃が10円、バスは20円かかる。
お小遣いは大切なんだ。いつものように緩い畑の坂道をハァハァ駆け登り、30分かけて桜井くんの家前で立ち止まった。二軒長屋の奥の借家、なぜか、いつもと違う雰囲気がある。
木の戸をトントンと叩く。応答がないので、もう少し強くドンドンと叩き、しばらくして桜井直樹くんが出てきた。「勇ちゃんか」
奥で 「だれ?」とお母さんの声。「勇ちゃんだ」 「………………」
私 「ゆりちゃん、おるの?」
直樹 「……………」 返事がない。
奥からお母さんがやって来て「友達の勇ちゃんね、来てくれたの」
私 「……………」 黙って、お母さんの顔をきつく見つめる。
桜井直樹が、上がれとすすめる。
「そうね、勇ちゃん、上がってからね」と、お母さん。
で、応接間の奥に仏間があり、その前の台に小さな写真と白い布で結んだ箱のような物があった。
子供の私は、それがどんなものか、すぐに分からなかったが、三週間前に一緒に遊んだ、ゆりちゃんが居ないのでキョロキョロしていると、お母さんが仏間の前に誘ってくれたので行くと、その前に、小さな写真があった、捜していた、ゆりちゃんだ。
その事を感じるまで少し時間がかかったが、このとき「ゆりちゃんは死んだ」ということを、しっかり頭の中で受け止めることが、できなかった。
お母さん「勇ちゃん、来てくれてありがとう」
お母さん「貴方が来てくれたことを、ゆりちゃんに報告しないといけないから、まずこの座布団に座って」
お母さん「そう、線香を一本取って、ロウソクから火を付けるのよ」
お母さん「その線香を立ててからリンを鳴らすの、一回だけ」チーンと「そうよ」と、お母さん。
お母さん「そしてこれは、ゆりちゃんが使っていた数珠、それを両手を合わせた真ん中にかけ、少しだけ目を閉じて、ゆりちゃんを想い出してね」
「そうよ、勇ちゃんは賢いね」と、隣で一緒に手を合わせる、お母さん。
作法を、お母さんが教えてくれて、桜井直樹くんも一緒に手を合わせた。
そして、お母さんが、お茶と菓子を置いてくれたテーブルで「一緒に食べながらお話ししましょう」と案内してくれた。
8畳ほどの室に小さな応接台、三人の私達。
私が来てなかったら二人だけの時間、ゆりちゃんの、お父さんは仕事。
しばらく声が出なかった私だが、直樹も、ほとんど黙っている。
いつもだったら直樹と私の間に、ゆりちゃんがチョコンと座って、おしゃべりしているのだが、今日は、その、ゆりちゃんがいない。
その事が、まだ受け入れられない私。
直樹もシッカリ口を閉じ、何もしゃべらない。
そのような重苦しい雰囲気を和らげようとして、お母さんが、お茶とか菓子を勧めてくれる。
ゆりちゃんの大好きな明治のチョコレートに森永ミルクキャラメルを一つずつ取り出して私の前に置いてくれる優しいお母さん。
そのお母さんが少しずつ話しかけてくれる。
私のことばかり聞いてくるので、私はなぜ、ゆりちゃんが死んだのか知りたくて、さっきから、ウズウズしているのに直樹はなんにも言わない。
直樹も無言だ。そのことが悔しくて、悔しくて、思い余って、おばさんにガッついて聞いた。
私 「ゆりちゃん、なぜ死んだんですか」急に大声を出した私にお母さんはビックリしたようだが、私のギラギラ目を見て、少し間をあけお母さん「竜神池にあやまって落ちたの、ごめんね」
私 「どうして落ちた?」
お母さん「カケッコしてコロンだの…」
私 「だれとカケッコした?」
お母さん「お兄ちゃんと近藤新一くんと想うわ」
私は直樹の顔をジローッと見て「あの道は通らんと言ったじゃないか」激しい口調になったが、直樹は下を向き黙っている。
時々、握りコブシで膝を小さく叩きながら悔しがっている直樹を見て、
もう直樹に言う言葉はなかった。
そして、なぜだか涙が溢れてきて、もう止まらない。
直樹と二人でワァワァ泣いていることは、決して不自然ではなかった。
ゆりちゃんのお母さんが私達を抱き寄せてくれ、お母さんの膝に頭を付け、泣く二人の背中を優しく抱いている。
その三人の姿を仏間の、ゆりちゃんがニコニコして微笑んでいた。
その日、牛島のおじいちゃん家に泊まり、次の日、桜井くんの家に行くと留守だった。
仕方なく、一人で昼過ぎまで愛犬の太郎と小ブタ、ヤギと遊び、夕方、実家に帰った。
数ヶ月過ぎての夏休み、牛島のおじいちゃん家に行くと、
透おじさんから、早速、櫻井直樹くんの、お母さんから預かったとされる、ピンク色の小包を貰った。
その中には、あの、ゆりちゃんが使っていた、白玉の数珠が入っていた。
その中に4つ折りした手紙が入っていた。櫻井ゆりちゃんの、お母さんからの手紙だった。
前略 勇ちゃん、こんにちは。
急なことですが、直樹くんと一緒に京都に帰ることになりました。
一年と少しの間でしたが、勇ちゃんと遊べた直樹くん、すごく楽しかったそうです。
おじいちゃん家のニワトリやブタ、ヤギのエサやりとか、広い畑で、のびのび遊べたこと、直樹くんも、ゆりちゃんも、すごく楽しかった。
いつも家族で、勇ちゃんと遊べたことを私達に話してくれていたのですね。ありがとう。
そのような、所から、私達、いなくなりますが、勇ちゃん、ケガしないで大きく育って下さいね。
箱に入っている白い真珠は、ゆりちゃんが使っていたものです。
お父さんが、お世話になった勇ちゃんにプレゼントするように。
それと、直樹くんが勇ちゃんのこと親友と言っていました。
大きくなったらお友達になって下さいね。
それでは、お父さん、お母さんに、よろしくお伝えください、さようなら。 草々
桜井
その手紙を読んで、真っ先に桜井直樹くんの家に行った。
すると空家になっていた。
隣りに住む横山のおじさんに聞くと、お父さんが転勤になり、実家がある京都に帰ったと聞いた。
せっかく夏休みを直樹くんと二人で、ゆりちゃんを想い出しながら遊ぶつもりをしていのに、ガッカリだ。この日は、ゆりちゃんが可愛がっていた愛犬の太郎と、ブタ舎のエサやりなどして終えた。
そして、私が中学から高校に進学したころ、牛島のおじいちゃんは亡くなり、家は消え、おじいちゃんの兄弟は北九州市門司の第一港運という会社に勤め始めた。
なんでも外国から安い肉が入り、牛乳とか野菜や玉子なども大きな農場に敗け、山地などを税金で取られ、守恒山は開発会社より宅地にされる事になった。
そのことで、おじいちゃんの少しの遺産が上瀧家に入ったこともあったが、そのお金も生活で使われ、おじいちゃんの「遺言状」のようにはならなかった。
そして私が17才のとき、ある事件が起きた。
守恒山と竜神池、権現池(通称、カッパ池)が宅地開発により造成工事が始まった。
その、干し上がった竜神池で子供の白骨遺体が発見された。
その子供は近くで行方不明になっていた近藤新一くんだった。
後で聞いたことだが、以前、私と遊んだころの桜井直樹くんの妹、ゆりちゃんが、その池で亡くなった数ヶ月後に、近藤新一くんも行方不明になった、ことだった。
守恒の大地主、近藤家の一人息子ということで、誘拐されたとかで、当時、大騒ぎになっていたのだが、その後、行方知れずであったが、まさか竜神池で亡くなっていた、なんて思いもよらないことだった。しかし、その近藤新一くんの白骨死骸から警察が不自然死ということで、その捜査が7年後の今になって再捜査されていると新聞記事に小さく記載された。
そのことで今、守恒集落は奇怪な事件として注目を浴びていた。
私の初恋の相手、ゆりちゃんが竜神池に落ちて亡くなった。
あのときは、信じられないぐらい竜神池の竜が、ゆりちゃんを引きづり落とした、と、あの時は、そう想っていた。その数ヶ月後には、今度は近藤新一くんが続けて、その池で亡くなったことは、私にとって凄く不愉快だと想っている。
しかし、この辺の集落の人々は、その竜神池でこれまで10数人の子供が死んだこと。
又、下池のカッパ池でも子供が泳いで足を引きづり込まれて死んでいるなどで、昔から子供の命が多く奪われていることを考えれば、決して近藤新一くんの死も、そのような事故かも知れない、と想われていた。とにかく私にとっては、もう終わったこと、済んだこと。
それに想い出の守恒山、牛島のじいちやんが育てた牛やブタ、ニワトリ、そして畑もない。
大好きだった桜井直樹くん、ゆりちゃんと遊んだ、あの「鎮守の杜の遊び場」も無い。
昔のことを想い出す場所が消え、友達の多くが、この地より去ってしまったことで、小倉守恒のことを忘れてしまった。
そして、このような事件が、忘れかけたころ、再び驚くようなことを父から聞いた。
竜神池で不可解な子供の白骨遺体は他殺だった。
その新聞記事を読んだ父が、大地主の一人息子が他殺で発見。
その犯人は同級生という見出しをみつけ、「勇哲、知ってるか、近藤新一5年生、お前と同級生で遊んだ子供だろう」と言うので、改めて、その新聞を読むと、「頭を石か鈍器で殴られ、池に落ちたことが直接の死で、頭の損傷から、まず警察が他殺かも知れないところから始まり、新一がシッカリ握りしめていたペンシェルのイニシャルから犯人を割り出し、その犯人を呼び出し、自白したことで、すんなりこの事件が解決した、ということだった」。
それで自白した犯人は、私と同じ17才。
その子のイニシャルがブルーのペンシェルにあったことが事件の決め手になった事が記載されていた。そのイニシャルが「N.S」まさかと想ったが、詳しく表記されてなかったので、このときはドキドキして心の中に納めていた。
その三ヶ月後ほど過ぎたある日、私宛に手紙がきていた。
桜井直樹である。いきなりの手紙だ。
直樹は京都の何処に住んでいるのか分からなかったが、妹の「ゆりちゃん」の49日以来、彼とは会ってない。それが、まさかの手紙だ。
手紙の内容は「昔、遊んだ守恒山の鎮守様とか、牛島のじいちゃん家の動物達だった。
山水が注ぎこむ、手作り池で遊んだことや、小川の清水にサンショウウオがいて、いつも野菜が食べ放題だった、あの頃のオレ達、楽しかったナァー。
妹の「ゆり」も、お前と一緒に遊んだあの頃が一番嬉しかったよ」の手紙だった。
「そして今、オレは○○少年鑑別所にいるんだ」
「そのことで勇ちゃんに教えておきたいことがある、もう一枚の手紙だ。
直樹から手紙をもらい、幼い自分たちの遊び、ゆりちゃんや直樹、近藤のことを想い出し、なぜかしら涙が出てきて、情けなくなっていた自分に気付いていた。
今、私は小倉守恒の、牛島のおじいちゃんの、お墓の前に立っている、一人ぼっちの私。
今日は、桜井ゆりちゃんの命日であるので、牛島のおじいちゃんの墓を、掃除を兼ね、白いゆりの花を一本ずつ左右にさし、お線香をたき、ゆりちゃんが使っていた小さな白い数珠で祈っている。
そして、竜神池の土手があった通り道から下池があった広い埋立地の境界道路は、
ちょうど、ゆりちゃんが亡くなったところ。
ここに、もう一本、白いゆりの花を添え、手を合わせた。
君の兄ちゃん、直樹の分まで祈ったよ。
「今度、ここに直樹と一緒に来るよ」と、独り言を言った。
竜神池と初恋 完
竜神伝説と初恋・完結 | 年上の人.1・続 | 年上の人,2・続 | 年上の人,3・続 | 年上の人,4・完結 |
2024.最後まで見てくれてありがとうございます。このお話しは本当にあった事を紹介しています。上瀧勇哲 |
写真の説明。神社と池、景観は、私が住んでいる福岡県行橋市元永区に現存するもの、可愛い女の子は私の孫です。