大和三郎丸の生い立ちを描く、小説・マイファミリー・シリーズ、お楽しみ下さい 

フィッシングライフ 上瀧勇哲 昭和の軌跡   №12         2023.7. 

小説 マイ・ファミリー 第四巻  「海洋磯釣俱楽部の生い立ち3完結

 小説竜神伝説と初恋  小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人  小説年上の人
 小説「車イスの家族」 海洋の生い立ち   海洋の生い立ち  小説「他人の子」1~4  

  マイ・ファミリー 「海洋磯釣俱楽部の生い立ち
あらすじ 編

     はじめに 作者の私 上瀧勇哲の紹介

私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市に住んでいる。その上瀧名は市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。

上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。

そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者と、なるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎて名前負けしていると父母から良く言われた。

それで上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えてもらうのが大変だった。その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成まで大活躍した上瀧和則さんだった。

競艇の選手で日本一を決めるジャパンカップを2度制覇した名選手で年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。
そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから彼のことを良く聞かれた。私より年下になる和則さんは遠縁の親戚で、話のネタに欠かせない存在だった。

しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでもと言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気。これは母方の祖父に似ているらしいが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。

そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、そのペンネームを使い30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり豊かな米作りができた処。
そして三郎は人名、丸は所を表すので三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め米作りに励んだ、と云うのが小倉藩の書物にある。

さて1950年、小倉三萩野三郎丸で生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。私という人間を形成してくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びを教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。
僅かばかりの時間の中で生き綴た、私の人生の一コマを、皆さんにアピールしたい。


登場人物

私と洋子ちゃんの結婚は昭和49年3月16日、私が24才で彼女が19才のとき。新婚生活は勤めている若松区の吉田印刷KKのアパートから始まり、会社の釣り部から海洋磯釣俱楽部へ繋がるストリーが、ここから出発する。

◎上瀧洋子 20才 妻
◎上瀧哲郎 21才 弟 TOTO機器釣り部
◎上瀧周作 19才 弟 TOTO機器釣り部
◎浦本英二 22才 洋子の兄 海洋磯釣俱楽部
◎ツタエお母さん  洋子の母 
◎西野 寿 65才 浦本家の親族
◎空閑敏明 45才 吉田印刷、平版機械 課長
◎内田小二郎42才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部
◎保里剛太郎40才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部 会長
◎東 登  45才 JR国鉄 海洋磯釣俱楽部
◎池田さゆり 吉田印刷所 事務所のマドンナ
◎柚木洋一 40才 吉田印刷所専務 
◎吉田正人 42才 吉田印刷所社長 
◎松田 勝 47才 宮崎県門川港、渡船船長 
◎都留正義 52才 九州礒釣連盟 初代会長
薮田敏郎 50才 九州礒釣連盟 初代事務局長
◎小路 隆 47才 九州礒釣連盟 広報部長
◎河村 博 51才 月刊 釣ファン会長
◎島本修一 29才 月刊 釣ファン社長
◎向井吉夫 51才 田川磯釣連合 会長
◎松井睦明 42才 中間市役所 北九州支部長
◎北野 孝 36才 TOTO機器三萩野サーフ
◎萩原金安 55才 吉田印刷磯釣クラブ 会長
◎中原健太 26才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部
◎中西和人 22才 住友金属 海洋磯釣俱楽部
◎畑間光男 49才 北九州サーフ協会 事務局長
ストーリー
  海洋磯釣俱楽部の始まり
吉田印刷磯釣クラブを解散し、会員独自の自由な発想で、活動できる釣りクラブを、若者達のアイデアで昭和51年3月16日発足
  全日本磯釣連盟から九州礒釣連盟へ
「九州の釣り場は九州の釣人が守る」。を合言葉に全磯連九州支部、西日本支部が解散、九州礒釣連が昭和52年、会員6000人で発足する。
㈱ゴーセンと繋がる九州礒釣連盟
スボーッのガット・ラインで有名な㈱ゴーセンが、釣り糸分野に進出。広告を頂く月刊釣りフアーン社長の河村博さんと九州礒釣連盟 会長の都留正義さんが協力し「LKG九州」をホテルニュー田川で発会式に参加
月刊 釣ファンと、ヤング鬼笑会
向井吉夫さん、菅沼定男さん他が結成した釣ファンの「鬼笑会」年配者が多くなり、新しく信任した釣ファン社長 島本修一さんの基で「ヤング鬼笑会」結成に私も参加
九州礒釣連盟と少年少女釣り大会の始まり
都留正義九州礒釣連盟会長と薮田敏郎北九州支部長の発案で、海難海防講習会と少年少女釣大会を小倉臨海公園で開催。関係者含め500人参加
九州礒釣連盟 北九州支部 若松地区との関係
海洋磯釣俱楽部は若松地区に所属、その地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤芳樹さん、20数クラブ320人以上の地区会員、その中の活動とは
➆海洋磯釣俱楽部、魅力ある、月一度の月例会釣行と常会
(公財)日本釣振興会と海洋磯釣俱楽部の繋がり
海洋磯釣俱楽部、昭和の大会と記念大会
海洋磯釣俱楽部の総会と新年会
ファミリーフィッシング文化と海洋磯釣俱楽部

⑫海洋磯釣俱楽部20周年記念誌発行
⑬海洋磯釣俱楽部とサーフメイズJAPAN
⑭「世界でたった一つの花」海洋を愛した会員
⑮「九州の釣文化を貴めた人々」と海洋磯釣倶楽部
⑯海洋磯釣俱楽部50周年に向けて


フィッシングライフ
上瀧勇哲昭和の軌跡 第四巻 

海洋磯釣俱楽部のおいたち 3完結

                                     大和三郎丸 (上瀧

 ⑫ 海洋磯釣俱楽部20周年記念誌発行

今、世の中、ベンチャー企業が増えていますが、その多くは企業経営者として、成り立たず消えてゆくのがほとんどです。やっぱり、起業独立を考えると人口の多い大阪、東京で事業を起こすのが近道で成功率が高い。これは、よほどの実力者にスポンサーがついていないと無理があります。その事を知っていながら、勤めていた吉田印刷所を20年勤続表彰されました。その次の年、私は退職しました。

その主な理由は二つ。やはり企業化、月刊 雑誌を発行したい、その想いがあったからです。
これは会社が印刷所であり、月刊 雑誌社と交友があり、新聞にも稿を出し、一人前で少しは稿料という収入があったからで、雑誌を編集する為の仲間達から稿を頂ける交流もたくさんあったので5ヶ年計画で、この事を始めたのです。

まだ28才の退職前から、この考えを進めていました。いずれ月刊 釣ファンのような本を出したい。そんな気持ちでコツコツ自分を磨き5年立ち、いくらか蓄えを備えていた時でした。

そんなとき、私と同じような考えを持つ釣り仲間がいました。その方が、まず最初に行動した月刊○○という雑誌を発売したのです。しかし半年、出版して赤字に陥ったのです。話しを聞けば、親から1千万円ほど借り、企業化したのだが、半年も持たなかったとかで、借金までした彼は2年あまり印刷会社の工員となり、やっと借金を返済し、長崎に帰って行きました。
この事を聞いた私はショック。それでベンチャー企業を諦めたのです。
私には無理、そのような大きなお金ありませんし、借金までして妻や親に迷惑かけたくない。その上スポンサーがあるのか、等々、考えたら無理だと知ったのです。


二つ目は、吉田印刷KKは入社とき、社員180人で、好景気に沸いた時代に入社したので、物凄く羽振りが良く、公務員並みの給料が頂けました。
当然のように死に物狂いで会社に貢献し、社長や専務から可愛がられ、課長まで昇進しました。そして
釣り仲間や親戚人が「イイ会社に入ったナァー」とか言われたのも10年少々でした。
段々と印刷所という会社経営の有り方とか、その機能が薄れてきた事。営業をしていると、それが良く分かるのです。
入社、数年後の昭和時代450人いた門司の隆文堂印刷所が倒産したのです。
それに小倉の天地堂印刷所も350人いた社員の3/2が解雇され、地図のゼンリンの子会社になるほど印刷業は増々もって経営が難しくなっている事を知り、アナログからデジタルに、大きく変革する時代に入っていました。その上で地方の北九州市と都会の大阪、東京の印刷業を垣間見ると、大きく印刷事業の衰退を知るのです。
しかし、毎月の給料袋を見れば分かる事ですが、私は全く、お金に興味を持ってないので、全て給料袋は洋子ちゃんに、そのままプレゼント。すると彼女が「今月は残業が140時間あって、月給より多いよ♡」と言ってくれるし、昇給も○○〇円上がり、3枚の袋に、それぞれ賞与に有給休暇を使わない分だけ、会社が配給してくれるので、社員に優しい吉田印刷KKだったのです。
それが昭和から平成に入って来ると、もうアウト。人員整理が始まり、若い子が少なくなり今度はパートの、おばちゃんが多く入って来るようになり、企業理念の躍進ではなく、衰退の方向へ進んで行ったのです。
やっぱり、投資という先物買いが必要で、アナログからデジタルに早く転換するよう私は求めたのですが、それにはアクションと資本、そして人材不足。経営者の古臭い体質があったのです。

魚釣りも一緒で、若いヤツほど上手。アクションがあり、考え方が早くて頭がイイ。IQではないのですが、昔のようにコツコツ物事をヤルような人材はアウト。ドンドン先走る、新しい事をチャレンジ出来る若者が居たら、こんな風にはならなかった。それと経営者の責任が大きすぎる。いわゆる、古い体質、考え方を、新しいものにチャレンジする見分けを、早く知らねばならないのです。そのような会社の体質を、私は20代の頃より知っておりました。

それでベンチャー企業に走った。しかし、頓挫してしまった。
33才で小倉南区の自前の中古家を購入して通勤。その後、20年勤めた吉田印刷所を退職し、印刷所とは違う、全くの別会社に二度ほど採用されました。しかし一週間勤め、その会社の内容が分かると、自分に当てはまらないのでヤメるのです。
それで釣り仲間の九州日産工場に勤めている下山さん、黒田さんから勧められた九州日産の季節工の入社は一発で合格。二交代制で、給料は吉田印刷所よりイイ。真面目に勤めると3年で正社員になれる好条件です。
その入社の3日前、息子とサッカーの練習で、左足膝の小さな骨が折れ、救急車で小倉健和病院に入院、ギプスを巻かれて、折れた骨が膝の神経近くにあるので手術が必要です、と言われたが、3日で退院しました。
ギプスを1ヶ月付けて療養生活。近くの阿部外科で、ゆっくりリハビリして下さいで、今に至っているのですが、その2ヶ月後、もう私の人生諦めました。

再就職の若園印刷商会という小さな印刷所に入社したのです。
10人ほどの零細企業でしたが、社長が凄く良い人で、息子さんが日大の体育大学卒のエリート体育教師、この方も会社の営業。
次男の阪九フェリーの2級航海士免許を持つ方も、身体が弱いという事で、数年後にパソコン入力で入って来て、みんな家族者で印刷所を運営している。
外部から私を含めて4人だけ。でも家族と一緒に仕事をしている気分で、私が工場の全てを任せられているので、心強いと社長さんでした。
この会社で10年勤める事になるのですが、このとき海洋磯釣俱楽部20周年記念誌を作りました。この記念誌も、仕事の合間に制作していたので、14ヶ月かけて発行できました。

A4380Pの厚い本には、海洋磯釣俱楽部の20年の歴史が刻み込まれていますが、何より広告、スポンサーの㈱オーナーばり、中道弘蔵社長さんがトップで30万円という広告を頂きました。
そして、㈱ゴーセン。㈱釣研。㈱マルキュー。㈱ボナンザ。㈱マミヤオーピー。㈱タカミヤさんなど、釣具店さんが広告料の大枚に加えて、お付き合いのある九州石鯛クラブの後藤秀孝さんには原稿も含めて、たくさんアドバイス頂き、大分県支部長の別府荒磯倶楽部の池田幹作さんに、博多駅料亭ヒカリの打越さんから、まさかの大枚に、たくさんのフイルムと原稿。全九州釣ライター協会の小路隆さんは、寝ないで書いてくれた原稿多数。総勢150人余りの釣り人やメーカー社長さんから原稿を頂きました。
それを1年かけて編集し、自己の会社で印刷し、800冊作れました。
これを多くの方に無料配布できた事、感謝したいと思います。

これも20数年間、お世話になった釣り具メーカーさんのおかげがあります。本当に今でも感謝しています。昭和時代から続いた、九州の釣り場事情に原稿書き、たくさんの皆様から応援され、釣り仲間が37名。OB会員が80人あまりの中に、ペンライターが7人もいた海洋磯釣俱楽部です。それぞれに新聞、雑誌でアピールしながら、同等に釣り具メーカーに、こだわりを持つ会員でしたから、上手にハマッた記念誌が出来ました。もう28年前の事になります。 

 ⑬ 海洋磯釣俱楽部とサーフメイズJAPAN

2023年で、海洋磯釣俱楽部は創立48年になります。
私が吉田印刷磯釣倶楽部の会計を始めたのが20才ですから、合算すると52年間、魚釣りで遊べているのでしょうか。海洋磯釣俱楽部の上部団体の九州礒釣連盟は昭和52年発足ですから、海洋磯釣俱楽部は、それ以前の昭和51年創立です。

私達の運営する趣味の海洋磯釣俱楽部は、何でもあり、の釣りスタイルで、底物釣り師から、ウキ・フカセ釣りの磯釣り師に、波止、護岸の釣り。全日本サーフを体感した仲間も加わってきたり、イカダ釣りダゴチン釣りも楽しいね、何でもありの釣りクラブでしたから、統制を取るのが非常に難しい釣りクラブでもありました。
それで、年二度の大会は渡船を使った磯釣り大会とサーフ主体のキスとか、カレイの大会をしました。当然サーフ専門の方は、磯釣り大会を好みませんから参加しません。
しかし、投げ釣りメーンのキスとかイシモチ、カレイなどは、磯釣り組までも参加し、こっちの方が賑やかしいのです。 出来るだけ多く参加してもらう為、毎月の月例会では、釣行に制約をかけません。自由な釣り方で、勝手に釣ってもらったり、ファミリーで参加したりで、検量はクラブ規定の24魚種の総重量制で、年間チャンピオン賞が決まったり、想わぬ大物を釣ったら特別賞という、色々なメリットがある規約に月例会、大会があります。
要は、出来るだけクラブの行事に参加してほしい月例会、大会にしました。これは平成に入ってからのプログラムに多く取り入れられました。その事で、どうしても九州礒釣連盟には入りたくない、会員もいます。

九州礒釣連盟は、年会費が1万円プラス。地区、支部、本部などの大会参加となれば、通常の釣り人でない本格的な釣り人集団になります。
何度も書きますが、海洋磯釣俱楽部は、ごく平凡な、何処にでもあるような釣りクラブで毎月一度、ファミリーフィッシングで遊べるような釣りクラブ作りをベースにしています。

それ以上に、こだわる会員さんは九州礒釣連盟に入り、共済保険に登録され、ハイレベルな磯釣り大会に参加すればイイとする、会長の考えがありました。
それで昭和時代は当初20名あまりの会員全員が九州礒釣連盟に登録されましたが、学生が入会できたり、会長の娘さん、息子さんも海洋磯釣俱楽部に入会できる仕組みも作ったので、学生は九州礒釣連盟の登録はありません。その事に始まり、会員の中では本格的でなくて平凡な釣りでイイから、海洋磯釣俱楽部だけにしてね、という会員が増え。

正会員が九州礒釣連盟まで登録会員。
準会員が海洋磯釣俱楽部だけの登録という感じの規約修正としました。これは、昭和から平成に入ってから、この規約変更となりました。


二部制ではありますが、この方が会としては、やりやすいと考えた私達です。それで月例会とか大会に参加する一般の釣り人が増えました。もっとも大会には、各メーカーさんから頂いた景品が後付けのように全員に配布されますから、当時の海洋磯釣俱楽部は、そこら辺の釣りクラブでは考えられないような、豪華なカーボンロッドに高級リールが大会、入賞者に贈られ、オマケにトロフィにブロンズ像がありました。これも、みんなPRできる新聞、雑誌に書いてくれる仲間がいて、釣具店さん始め有名釣り具メーカーさんのおかげ。
そして(公財)日本釣振興会のおかげがありました。
そのような海洋磯釣俱楽部がありましたが平成の時代に入りシビアな世界観となってきました。

釣り人3000万人いた昭和時代から、釣り人700万人の平成時代です。
その、しわよせは釣具店から釣り具メーカーにも経営悪化がありましたから、昔のようなスポンサーがありません。釣り具メーカーも統廃合されてゆくイヤな時代です。
海洋磯釣俱楽部も元気が、なくなった50代から定年を迎える仲間が増えてきました。
それで一度、海洋磯釣俱楽部の規約を、見直しを始めます。規約に縛られない毎月一度の月例会の廃止。大会もしない。自由勝手な釣りスタイルで、仲間内の個人的な運営が、できないか、の発想です。それに会費も徴収しない、複雑な、ややこしい会計決算、報告なしで全てが自由。そんな釣りクラブでイイじゃないか、の発案がありました。
その中で九州礒釣連盟の団体に残る会員は、そのままという事で、いつでも復帰できる条件で、よりメリットのあるメーカーさん主導の、釣研FG。がまかつGFG。マルキューのMFG九州など。釣り具メーカー主導の釣りクラブに入会する事で、活動したい仲間が増えたので、それなら私のアイディアでOB会員180名も含めた、サーフメイズJAPANに、変更となったのです。
その上で、会費は一切なし。各自が目的とする団体に登録され、自由な釣りスタイルで、新たにスタートを切ったのです。

 ⑭「世界でたった一つの花」会員さんに届ける花

海洋磯釣俱楽部を創立して今年2023年3月で48年になりますが、その当時から、お世話係で仲間意識を貴めた私ですが、会長以上に時間をさいたのがチームワークプレーを何処まで図れるか、が私のお世話係としての使命でした。
その役割を、多くの会員さんが協力してくれ、今に続いているのですが、若人の集団から、今はシニアの集い場となりました。
正直、寂しい限りなのですが、これは釣趣の変革が大きく変わった事で、若い釣り人が入会しなくなった事が原因です。同じような立場の九州礒釣連盟とか、全日本サーフキャスティング連盟、全日本磯釣連盟も同等にあります。


時代の変化に付いて行けない、私達がアクションを求めないといけない、のですが、もう50代から60代を越えるシニア世代では、もう無理なのです。
今の若者世代はゲーム制を考えた釣趣で、魚釣りで遊べたらイイ感覚。

一方の私達、やっぱり、どうしても魚を釣りたい、たくさん釣り、デッカイ大物も釣りたい世代なんですねェー。これが昔流の釣りスタイル。当然、生エサで釣りをします。
マキエして魚を集め、その中からターゲット魚を絞り、大漁、大物。
あるいは投げ釣りも、やっぱり生きた虫エサを使います。もしくは、魚の切り身であったり、エコギアやジグ、ルアーなどありますが、やっぱりベースは生エサの虫エサなのです。この方が魚が良く釣れる、大物も釣れます。

したがって、このような釣りスタイルの投げ釣りキャスターも近年、非常に少なくなってきました。大型釣具店においても、投げロッドが無い。投げリールも無いので、カタログを見て注文が私達。若い方はネット注文しますね。
又、磯釣り、波止、護岸、イカダ釣り場も近年、廃業される渡船が多くなり、海釣り公園施設に変わりつつありますが、これは公共がカラム事で、一般の養殖業者達が副業にしていたイカダ釣りが極端に少なくなりました。

釣りの時代は、オカッパから船釣りに変わってきましたが、こちらも色々な諸事情により、そんなに、お魚さんが釣れる訳でもなく、職業漁師の副業の合い間に渡船業。もちろん、養殖業者も同じようなアクションを取っています。中々、自然相手の魚釣りは難しい時代です。
それに、お魚さんが少なくなってきましたので、よけいに海釣り観光施設が何とか現状維持し、頑張っています。
そのような変化してゆく中で、海洋磯釣俱楽部の会員さんが色々なリアクションで去ってゆく事が多くなり、昭和51年創立から令和時代までに190名あまりの会員さんがOB会員となりました。
その中で現役続行中の会員さんが35名ほどいらっしゃいますが、100名以上の会員さんが、身元確認できていませんし、なにより、お年をめされ、亡くなった会員さんは、私が知る限りで30数名いらっしゃいます。ほとんどが年賀状で知る事なのです。

私達が若いころの、3040代で大活躍していたとき、釣りの事故で亡くなった方、二人。
親友のような関係の方が三人。みんな私より若くして去った想い出を、ホームページ「世界でたった一つの花」で紹介しています。
そして私の師匠でもあった恩人の方々は、ホームページ「海洋を育てた恩師」に。
そして、海洋磯釣俱楽部と九州礒釣連盟を繋ぐ、私との深い交流を持ってくれた九州の釣り文化人を、ホームページ「九州の釣り文化を貴めた人々」で紹介しています。


一人一人の想い出は複雑で悔しい、涙あふれる釣り仲間であったり、尊敬する、ご恩を受けた人々でもあり、私の生き方を真っ直ぐ、育ててくれた恩師もいました。「九州釣り文化」に欠かせない人々を、私なりのお付き合いの中で書かせて頂きインターネットで常時、流れておりますので、ぜひご覧下さい。そして、一番の悔しい事は、釣り事故で亡くなった友人です。
これだけ、あれだけ注意しても、何かのキッカケ、ヒョンな事で、暗い海に落ちてなくなってしまうのです。まさかの人がです。そのような海難、海防、海の事故は、私達の身近なところで起きている事を忘れない為にも、あえて紹介しております。会員だから、よけいに辛いのです。
そのような事も踏まえて、ぜひ、海洋磯釣俱楽部のホームページをご覧下さい。

 ⑮ 九州釣り文化と海洋磯釣俱楽部の絆

私は幼い頃より水辺に親しむ、優しい大人しい子供でした。
その環境が北九州市小倉南、守恒に住む、私の祖母方の牛島栄六おじいちゃんが住む家で、職業にしていた大きな二つの山並みと二つの池。その池に注ぎ込まれる山水、小川のような小さな川が沼地を通して、大きな二つの池に注がれる、農業用水池がありました。


その小さな小川と、山の谷間から湧き出る山水が数ヶ所あり、二つほどの山水池に、おじいちゃんの息子達が掘った岩場の露天風呂のような池があり、その山水池を通して小川の水が大きな農業池に入る仕組みの、二つのデッカイ池。
おじいちゃんの山と、対向する権現池の山並み。こちらも、盆地を持つデッカイ酪農家があり、その山並みからも、この溜池に山水が入っていた時代。
権現池の通りは、今の守恒の主要県道とされ、守恒小学校に守恒中学校があり、大きなスーパーマーケットに、多くのマンションが山上まで立ち並び、その北側には北方の陸上自衛隊とか、企救中学から北九州大学校までの街並みがあります。
当時は農地か山林でしかなかった寂しい村だった所でした。昭和30年代の話しです。
私が言いたいのは、牛島のじいちゃん、千代おばあちゃん、その息子4人が作った人工池にサンショウ魚にイモリやウナギ、ザリガニに、タニシ貝がたくさんあり、それを食べれるだけ取った、水辺の話しなのです。


この時代背景は、ホームページ第一巻、小説「竜神伝説と初恋」に紹介されています。
そして、住んでいた小倉北区三郎丸小学校周辺にも、そのような小入出川という川に、田植えの中に入っている、たくさんの生き物を取って遊び、食料にしたガキグループ。
自然の中で自由に遊べた足立山、下の川から山水、水辺で良く遊んだお話しがあります。
小さいころから水辺に慣れている事に加え、従兄弟が住む、紫川にも良く遊びに行けました。今は、上流のダムで水量が少ないのですが、昔は川幅が広く、水深が2~3mあった危険な川でもあり、それだけ魚達と多く遊べた紫川でした。
上流に工場もなく淡水で、その水を、いくら飲んでも病気にはならなかった。
そのような小学、中学校から高専と進み、そして、まさかの北九州市若松、洞海湾そばの吉田印刷KKに入社する事など、全くの奇跡。
釣り心を揺さぶられた社会人の第一歩が、釣りキチ人生の歩みに重なる私でした。
その釣りキチ人生の歩みを、会社人間と並行して生きる姿を今、こうした内容で皆さんに紹介している訳ですが、生きる糧は、やはり仕事第一主義。そして、最も大切なのはお金。その上で成り立つ人脈、交流、絆社会の、あるべき姿。私を彩ってくれた、たくさんな人々は、みんな私の師匠でもあり、恩師と言える方々ばかりです。

親友も、生きてこそ親友。亡くなってしまえば、私の恩師として手を合わせたい。
絆社会がもたらしたイイ事ばかりの社会人ではなかったのですが、苦労して、苦労して、本当に良く頑張った私の人生。そして親友、師匠、恩師となる方が、100人も、200人も私の心の中で、はいつくばっているのですねー。
その方達のハートや考え、気持ちを、少しでも理解してやりたい気持ち。


魚釣りだけ、釣りキチであった、釣りキチで交友できたから、イイ事づくめで、私のハートは温かい。お世話になった人々に感謝のハートで、ホームページ「九州の釣り文化を貴めた人々」で紹介しています。本当は、まだまだ、たくさんの人々がいるのだけれども、交流の深さを、お付き合いの度合いの中で紹介できている人々です。

九州礒釣連盟を育てた都留正義会長と、初めて出会えた都留酒店での話し。その後、宮崎県支部長と数名で会いに行った小倉のマンション。都留さんは大歓迎。このときは、まだ地声で話しができて楽しかった。 対馬空港から福岡空港で、対馬浅茅湾で釣れた巨ギスを50ℓクーラーで出し合い、見せあいこした都留さん。そばに門司磯釣倶楽部の方々。全日本サーフ事務局長の金田厚さんがいて、いつも都留さんのそばに誰かいて楽しそうだった。

九州礒釣連盟初代 事務局長 薮田敏郎さんも、私にとっては大師匠になる方。学校の先生のような方で、良く叱られた?イヤ、可愛がってもらった。小倉室町の会社の中で、小仲さんが、いつも、そばにいて対馬のキス釣りの話しを良くしてくれました。みんな大親友です。
そして、九州電力に勤める菅沼さんから電話で、「チョット会社に遊びに来い」という事で、九州電力小倉営業所に行くと、仕事中にも関わらず、北九州支部の審査部長の肩書を持っていた菅沼さんから怒られた。「魚拓がヘタクソ」
「すいません」「仲間がとったもので、と、言い訳する私」
「キスは丸っこいので、こうして魚拓するんよ」と、教えてもらい、その後無理やり「鬼笑会」の大会参加とか、山陰、油谷湾和田水産のイカダ釣り大会に誘われたり、大変だった。これも月刊釣りファンの投稿者の付き合い、色々ありました。

そして、月刊 釣ファンの河村社長が引退し、島本修ちゃんが社長になり、ヤング鬼笑会を作る話し。「貴方達に任せるよ」と菅沼さん。「向井吉夫さんもイイよ」とかの話し、です。
その一ヶ月後、再び、山口県長門市油谷湾、大浦の和田水産が管理する、沖のイカダ釣り大会に、強制的に参加された私。
「イカダ竿、持ってない」と私。

「オレの古いのヤル。リールは磯用でOKよ」とかで、竹で作ったイカダ竿(ダコチン竿)
1本くれた菅沼定男さん。

釣り方も、何も分からなかったが、当日は向井吉夫先生、上田川磯釣倶楽部の会員25名に、特別参加の私などで60名以上の釣り大会。そして私が、まさかの、カレイとアイナメを底で釣って、残念賞でハリスが貰えた楽しい大会。
これより向井吉夫先生と、㈱オーナーばりとの交友が始まってくるのだが、私は、まだ20代。向井さんは50代と息子以上の年令差がある人。
添田町で旅館を経営している暇人に、私のようなサンデーアングラーのお付き合いは出来ない。
ときたま、月刊 釣ファン主催の忘年会が三年つづき「この間は、残念賞おめでとう」の向井さんに菅沼さんや、始めての若松敬竿さん。
有名な方ばかりいたので、私は隅っこで酒は飲めないで、コミュニケーションが少し。

若松敬竿さんとの出会いは、昭和からあったのだが、同じ若松人、本町で奥様と喫茶店経営者。伊木釣具店の「親睦会」で一緒の釣行会も、参加者が6070人の中、私はいつも隅っこの中。
とっても偉い人と話しを出来る事なく、平成を迎え、そして、まさかの月刊 釣ファン、三代目編集長が若松敬竿さん。
原稿を持って行くたびに話しができコヒー飲めて持ち上げてくれる優しい人。

別府荒磯クラブの池田幹作さんは、㈱ゴーセン創立当初から繋がる人で、ゴーセン福岡営業所で何度か話しができ、都留会長の貢献人のような人で温厚で優しい。とても石鯛釣り人とは想えない人。そのような方から総会とき、声をかけられたり、20周年記念誌、発行ときは大枚まで頂いた。九州釣り団体協議会とか大分県支部長とかの偉い人と、なぜかしら絆が出来、可愛がってくれた。

熊本県の木下支部長さんも同等な方で、若い石鯛釣り師で、いつも奥様と一緒。
独特な考え方で支部をリードしている。しかも、つり糸のゴーセンのお世話係で、ズーッと年賀状を頂いていた。イイ方だったが、いつしか居なくなったが20周年記念誌に、お祝いの稿を頂いているから、絆という接点を作ってくれた河村社長に、都留さんに、いつも感謝。

そして、全日本サーフ会長の小西和人さん。デッカイ方で、まさか週刊 釣りサンデーを発刊するとは想ってもなかった。投げ釣り好きの私が一生懸命に対馬や平戸、そして近場の関門海峡の釣りで、デカ・カレイにアイナメを釣る事。そして対馬で私のシロキス記録34.2㎝の魚拓を提出してから、早速、小西さんから電話で原稿依頼が始まり、これが良かったのか、週刊 釣りサンデーが廃版されるまで原稿の依頼と、息子さんの小西○○さんから連絡で、単行本発行の特別原稿を良く書いた。イイ関係だったけれども、素晴らしい方が、まさか釣り雑誌を廃版するなど考えもしない事だった。言い訳は「余力のある内に、社員に配分し、再スタートできる環境を作りたかった」と、小西さんの息子さんの話しです。

その中で、全日本サーフ会長、伊丹一さんとの交遊も、対馬で3度あり、仲介してくれたオーナーばり社長の中道弘藏さんですが、全国版の全日本サーフ会長とのお付き合いは少しでしたが、あのような方が釣界から去っていかれた事、寂しい、勿体ない。でも私にとっては親友として対馬の尺ギス、ポイント20数ヶ所、教えてもらいましたから。

九州釣り文化と海洋磯釣俱楽部の絆は、みんな私のアクションから始まったものです。
引き合わせてくれたのが新聞、雑誌、釣り具メーカーさんですが、このようなお付き合いが今でもある事、幸福です。しかし、釣り文化も釣趣を変え、変化してゆくのも仕方のない事ですね。それでも私には、私なりの釣りスタイル、釣り文化と想い、若い後継者を今、育てています。

 ⑯ もうすぐ海洋磯釣俱楽部50周年

早いもので、趣味の釣りクラブが2年後の2025年で50年を迎えようとしています。
創立会員の16名の内、私達兄弟に、今は釣りをしていない先輩に後輩が4人、名簿に登録されています。その中で48年間、海洋磯釣俱楽部に登録された会員は200人を超えています。
私の会員名簿は3冊あり、釣具店から釣り具メーカー、行政から釣り人組織団体など、海洋磯釣俱楽部と関わった、あるいは、お付き合いした人々の名前から会社、企業、行政の職域までを含めた、市政、町政、国家、代議士など、多くの住所録に電話、色々を手書き記入されたものです。
「たかが魚釣り、されど釣り」そのことわざに関係する人々の多さに驚くべきものがあります。



その中で、海洋磯釣俱楽部に登録された正会員に準会員、OB会員と区別されておりますが、それぞれの年代に於いて「機関誌 海洋だより」を送付しておりましたが、返信、連絡が途絶える会員さんが年々増えております。その中で海洋磯釣俱楽部は8年前、一度、解散し、再起して全てが自己負担で「機関誌サーフメイズJAPAN」として引き継がれ、会費など一切なしの、自由勝手な釣りクラブ運営となりました。
ただし、九州礒釣連盟に登録し活動する方には、磯連に必要とする経費だけ、会員さんが負担する仕組みに変えております。
その上で、海洋磯釣俱楽部の運営は全てがボランティア奉仕。
そして、釣り好きの人々が会費なしの自由に入会できる仕組みとして、私が発行する「機関紙サーフメイズJAPAN」を年6度、郵送か手配りしています。


以前のように、ややこしい規約とか月例会とか、総会などありません。ただ一緒に魚釣りできる仲間がいて、一緒に釣りマナーとかクリーンアップしてくれる、共有してくれる方が、希望して海洋磯釣俱楽部に入会できるシステムです。
現在、40人ほどの仲間がいて、プラスαで、九州礒釣連盟とか(公財)日本釣振興会などとの関りを持ってくれる方がいますので、釣りをしない方や、船釣りとか、今風のジグ、ワーム、エギング、ソフトルアーをする若者も、会の仲間として、お付き合いしてくれます。そして、それぞれの釣り仲間には、釣研FGとか、がまかつGFG、マルキューMFG九州、ゴーセンLKG九州、オーナーFGなどで活躍されている方が多いのです。

釣りのメリットを多く求めるなら、釣り具メーカーが主導する釣り部に活動拠点を置き、釣趣を更に貴める事が望ましいと想うのです。

小さな単一の釣りクラブが、小さくアクションするよりも、外に出たアクションの方が、より釣り仲間とか釣趣を深め、遊び心を膨らませてくれる事。
それに今風の釣り場事情とか釣り文化に沿って、釣趣をドンドン深めてもらった方がイイと想うので、海洋磯釣俱楽部とした40数年の歴史を今、塗り替えようとしています。
それでも九州礒釣連盟も創立47年になり、同じような足跡を、たどって来た私や仲間達も現役続行。身体が動く間は、都留正義さんのように、若者に優しい、何でも聞いてくれる人になりたい、その想いがあります。

ですから、今の私は若者を育てる、「九州釣り文化」を、永遠にプログラムするハートでおります。出来るところで、出来るまで、妻の洋子ちゃんや弟、仲間達で遊べるだけ遊びたい。これが心情なのです。

そして、20才から始まった釣趣は、「吉田印刷磯釣倶楽部」から、その6年後の「海洋磯釣俱楽部」に始まりました。その間に出会った多くの先輩に師匠は、今はいません。しかし、その子供達とか、曾孫が釣趣を続けている事、嬉しいですねェー。
釣趣は変化しても、魚釣りの魅力にハマッてくれている事に感謝なのです。そして今は女性も、奥様も、釣趣に深く根付いていますから、花が咲いたような釣り文化が今、ありますね。

私達夫婦が始めたファミリーフィッシングという、ささやかな遊びが根付き、今があるような気がします。九州礒釣連盟や北九州支部、薮田敏郎さんが始めた少年少女釣り大会という、世代を越えた釣り文化を、子供達にゆだねていた事を、今、想えば、30年、50年先を見越していたようにも想えます。そのような底辺をクローズアップしていたからこそ、今の遊びがあり、釣り具産業、釣文化があるのです。


私は、幸福の為に会社人間として一生、企業に尽くしました。その上で、趣味の領域で、たくさんの人々と知り会い、その恩恵を受け、今の私があります。このような文章が書ける事も幸福。そして、自費で発行する「機関紙サーフメイズJAPAN」もちろん今風のインターネット社会のホームページを配信する事も、遊びと喜び、幸福なのです。

恩師から頂いた恩は、倍返しで釣界に奉仕したいハートでおります。
ネット社会から配信している私のホームページを、ぜひご覧下さい。その上で、スマホやメールでの対応はしておりません。自由、気ままに、一方的な配信をしておりますので、何かありましたら直接の電話か手紙でお願いします。それでは、
「海洋のおいたち」第四巻、終編3 完結します。

2023.9.更新            海洋磯釣俱楽部 上瀧勇哲










 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



  2023,初公開 上瀧勇哲 昭和の軌跡1976~1989ごろの出小説 mujik夏川りみ 05涙そうそう
マイ ファミリー 第四巻
 小説  海洋磯釣倶楽部の生い立ち 3 完結

             作者・編集・発行人 大和三郎丸 (上瀧勇哲)