2023,初公開 上瀧勇哲 昭和の軌跡1976~1989ごろの想い出小説 mujik夏川りみ 05涙そうそう |
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フィッシングライフ 上瀧勇哲 昭和の軌跡 №11 2023.5.
小説 マイ・ファミリー 第四巻 「 海洋磯釣俱楽部の生い立ち2 」
小説竜神伝説と初恋 | 小説年上の人1 | 小説年上の人2 | 小説年上の人3 | 小説年上の人4 |
小説「車イスの家族」 | 海洋の生い立ち1 | 海洋の生い立ち3 | 小説「他人の子」1~4 |
私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市に住んでいる。その上瀧名は市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。
上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。
そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者と、なるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎて名前負けしていると父母から良く言われた。
それで上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えてもらうのが大変だった。その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成まで大活躍した上瀧和則さんだった。
競艇の選手で日本一を決めるジャパンカップを2度制覇した名選手で年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。
そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから彼のことを良く聞かれた。私より年下になる和則さんは遠縁の親戚で、話のネタに欠かせない存在だった。
しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでもと言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気。これは母方の祖父に似ているらしいが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。
そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、そのペンネームを使い30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり豊かな米作りができた処。
そして三郎は人名、丸は所を表すので三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め米作りに励んだ、と云うのが小倉藩の書物にある。
さて1950年、小倉三萩野三郎丸で生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。私という人間を形成してくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びを教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。
僅かばかりの時間の中で生き綴た、私の人生の一コマを、皆さんにアピールしたい。
登場人物
◎私と洋子ちゃんの結婚は昭和49年3月16日、私が24才で彼女が19才のとき。新婚生活は勤めている若松区の吉田印刷KKのアパートから始まり、会社の釣り部から海洋磯釣俱楽部へ繋がるストリーが、ここから出発する。
◎上瀧洋子 20才 妻
◎上瀧哲郎 21才 弟 TOTO機器釣り部
◎上瀧周作 19才 弟 TOTO機器釣り部
◎浦本英二 22才 洋子の兄 海洋磯釣俱楽部
◎ツタエお母さん 洋子の母
◎西野 寿 65才 浦本家の親族
◎空閑敏明 45才 吉田印刷、平版機械 課長
◎内田小二郎42才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部
◎保里剛太郎40才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部 会長
◎東 登 45才 JR国鉄 海洋磯釣俱楽部
◎池田さゆり 吉田印刷所 事務所のマドンナ
◎柚木洋一 40才 吉田印刷所専務
◎吉田正人 42才 吉田印刷所社長
◎松田 勝 47才 宮崎県門川港、渡船船長
◎都留正義 52才 九州礒釣連盟 初代会長
◎薮田敏郎 50才 九州礒釣連盟 初代事務局長
◎小路 隆 47才 九州礒釣連盟 広報部長
◎河村 博 51才 月刊 釣ファン会長
◎島本修一 29才 月刊 釣ファン社長
◎向井吉夫 51才 田川磯釣連合 会長
◎松井睦明 42才 中間市役所 北九州支部長
◎北野 孝 36才 TOTO機器三萩野サーフ
◎萩原金安 55才 吉田印刷磯釣クラブ 会長
◎中原健太 26才 吉田印刷 海洋磯釣俱楽部
◎中西和人 22才 住友金属 海洋磯釣俱楽部
◎畑間光男 49才 北九州サーフ協会 事務局長
ストーリー
① 海洋磯釣俱楽部の始まり
吉田印刷磯釣クラブを解散し、会員独自の自由な発想で、活動できる釣りクラブを、若者達のアイデアで昭和51年3月16日発足
② 全日本磯釣連盟から九州礒釣連盟へ
「九州の釣り場は九州の釣人が守る」。を合言葉に全磯連九州支部、西日本支部が解散、九州礒釣連が昭和52年、会員6000人で発足する。
➂㈱ゴーセンと繋がる九州礒釣連盟
スボーッのガット・ラインで有名な㈱ゴーセンが、釣り糸分野に進出。広告を頂く月刊釣りフアーン社長の河村博さんと九州礒釣連盟 会長の都留正義さんが協力し「LKG九州」をホテルニュー田川で発会式に参加
➃月刊 釣ファンと、ヤング鬼笑会
向井吉夫さん、菅沼定男さん他が結成した釣ファンの「鬼笑会」年配者が多くなり、新しく信任した釣ファン社長 島本修一さんの基で「ヤング鬼笑会」結成に私も参加
➄九州礒釣連盟と少年少女釣り大会の始まり
都留正義九州礒釣連盟会長と薮田敏郎北九州支部長の発案で、海難海防講習会と少年少女釣大会を小倉臨海公園で開催。関係者含め500人参加
➅九州礒釣連盟 北九州支部 若松地区との関係
海洋磯釣俱楽部は若松地区に所属、その地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤芳樹さん、20数クラブ320人以上の地区会員、その中の活動とは
➆海洋磯釣俱楽部、魅力ある、月一度の月例会釣行と常会
➇(公財)日本釣振興会と海洋磯釣俱楽部の繋がり
➈海洋磯釣俱楽部、昭和の大会と記念大会
➉海洋磯釣俱楽部の総会と新年会
⑪ファミリーフィッシング文化と海洋磯釣俱楽部
⑫海洋磯釣俱楽部20周年記念誌発行
⑬海洋磯釣俱楽部とサーフメイズJAPAN
⑭「世界でたった一つの花」海洋を愛した会員
⑮「九州の釣文化を貴めた人々」と海洋磯釣倶楽部
⑯海洋磯釣俱楽部50周年に向けて
➇(公財)日本釣振興会と海洋磯釣俱楽部の繋がり
私が勤める若松区の吉田印刷KK側に洞海湾があります。
そこから若戸大橋まで歩いて12分800mほど。
会社と洞海湾を隣り合わせた遊歩道側に高さ2mのブロック塀で海潮を防ぐような敷地の会社です。その隣りに漁船を修理する造船所がありました。
すぐそばに海があるので釣りができる、と想ったら大間違い。
海が真っ茶色に海面に油が浮いているドブ臭い、異様な臭いがする海、とても魚が住めるような海でなく、試しに投げ釣りで100m沖の海底を探ると、テンビンオモリに油とドブの付いた布切れや、缶詰め、鈎に掛かるのはドス黒い小石に藻根が腐ったものに、産業廃棄物のような信じられない、真っ黒いゴミが釣れます。
いくら汚い海でもボラぐらいは居そうな気がしますが全くの死の海、その洞海湾が昭和時代にありました。
2015,6月の写真です。奇麗に整備された若松洞海湾、若戸大橋と海岸遊歩道でチヌがつれています。
昭和49年、洋子ちゃんと結婚、住まいを構えた若松の浜町という地域。
その先に日立造船、日本鉄塔、日華油脂、東海鋼業、北湊には鉄工所や企業、工場がひしめき合い、その沖に埋立地が広がる地域は港湾局と新日鉄が管理する産業廃棄物を、海に捨てる埋立地がありました。
2023.6.の写真です。若松沖波止に今から更に埋め立てが広がる響灘、すぐそばに白島展示館は無料で、「石油備蓄基地・白島」の内容と石油が、どのように利用されているかの勉強ができます。3階からの響灘の景観に映像、ランチもできます。ぜひファミリーフィッシングの時でもご利用下さい、月曜日が休館、土日祝オープンしています。
その洞海湾から、やっと出られた所に軍艦防波堤があり、旧海軍の駆逐艦など4船沈められている地域があります。
この時代は、そこまで渡船で行けると魚が釣れるぐらいの汚い洞海湾でした。
一方その南の奥洞海は、江川と繋がる、もっと厳しい海があり八幡製鉄所を核にした三菱化成など、化学工場群が奥洞海にひしめき、高いエントツから赤、青、オレンジ、黄色の煙が北九州市洞海湾の空を囲んでいましたから、私が住むアパートに煤煙という、鉄のような粉末が家の中に入り、室内が毎日ザラザラになるのです。これが普通のようにありました。
昭和から始まった高度成長時代の産物は、当然のように市民を巻き込んだ環境にありましたので、この時代の子供の多くは喘息患者が急増していたのです。
私は小倉の人間で、若松の会社に勤めはじめ、始めて知った環境汚染に海、空の大気汚染に驚きましたが、若松に住み始めると、これが当たり前のようになるのです。
若松生まれの洋子ちゃんも、そのような病気。
釣り仲間とか海洋磯釣俱楽部の仲間達の多くが、この環境を、気にし、郊外に、逃げるような雰囲気もありましたが、ベースは、やっぱり若松の吉田印刷の会社です。
その上で若松ひびき灘の埋立て工事が本格的に始まりました。
まず最初に始まったのが、市営バス通りの小石浜です。この場所は遠浅で潮が引くとアサリ貝がたくさん取れる有名なアサリ堀場でした。
その隣りに不動下とか、椿下、若戸自動車学校があったところです。
この地域はバス通り下の海岸線から沖まで続く遠浅の岩場のゴロタ浜に藻根が多く、ワカメはもちろん石コロ、磯場の合い間から、アワビにサザエ、デッカイ紫ウニが大変良く取れたところで、私が会社に入社した昭和43年ごろは、最高の磯遊び場として賑わっていました。
その中で干潮時、ミャク釣り、ブラクリ仕掛けに本虫を付けて探るとクジメ、アイナメ、カサゴ、メバルが50匹、100匹は簡単に釣れていました。
1970~1972の若松小石浜からつづく脇ノ浦海岸は藻場と磯場、その沖は砂地のシロキス釣り場でした。
当時、若松区役所前の伊木釣具店の親睦会に入会していたので、このような根魚釣り大会もありました。その検量もハンパないぐらいで、150~300匹近く10K以上釣って入賞とかの穴釣り、ミャク釣りの釣り人が多くいました。
今では信じられないような藻魚の宝庫でした。
その沖で釣り仲間の浜部さん兄弟に、空閑課長などがゴムボートを購入し、その沖の砂地でシロキスは、ほとんど25㎝前後のデッカイキスを50匹、100匹釣っていました。
そのキス釣り仕掛けも、ナツメオモリを素通し、サルカンで止め、それから先がハリス1本か、枝スを付けた2本鈎に、砂ゴカイ虫をつけ、お粗末な、簡素仕掛けで釣れていたので、若松ひびき灘の海は恵まれた釣り場でした。
その海が10年もすると完全に埋立てられ、藻魚やシロキスが釣れていた海は囲まれ、赤い海となりました。
新日鉄から持って来た廃液か、何か分かりませんが、広大な海が赤く変色するぐらいの埋立地となり、私達のホームグランドが一つ消滅されました。
今はバス通りで脇ノ浦港まで完全に埋立てられましたが、その広大な跡地の、地下は公害の温床です。
まだ昭和時代で、やっと海洋磯釣俱楽部を立ち上げ、九州礒釣連盟という組織にもチョッピリ顔を出している私達でしたが、若松に住んでいる釣り仲間の多くが前に紹介した環境を知り、生まれ育った先輩が、たくさんいます。
それで環境汚染した海を捨て、奇麗な海を求め遠征釣行していた仲間達が多くいたのです。
その中で、少しずつですが企業も行政も、公害というものが人間に害を与えることを切に感じ、市民訴訟が始まり、北九州市政と市民が協力し、公害を無くす努力から、更に環境に優しい下水処理など、あらゆる手段をもちいて企業参加の洞海湾の環境に取り組んでゆくのですが、これは昭和の終わりごろから、やっと始まったものです。
その間、若松ひびき灘において埋立てが進み、工事中とかのフェンスネットで釣り人が海に入れなくなる事が各地域で多くなりました。
平成に始まったソーラス条約ではなく、もっと以前の海の埋立。公共の岸壁つくり。
そして、企業の工場私有地が始まってゆくのですが、長い海岸線を持つ若松ひびき灘の海は、洞海湾から脇田漁港。その間にある脇ノ浦漁港でさえ、釣り禁止となる有様でしたから、釣り人と企業、そして行政の取り組みに、いささか疑問を持つ釣り人が増え、私のように月刊
釣ファンや新聞誌上で釣り人達の海を返せ「海浜入り権利運動」を書き、多くの公共が始めている埋立地現場の取材を良くしました。
その上で、少しばかり釣りが出来ていた洞海湾沖の若松一文字波止は良く通いました。
ウキ・フカセ釣りのメイタ、チヌ狙いにクロにアジが良く釣れ。
投げ釣りでもシロキス30㎝とか、イシモチ、コイチの50㎝サイズ。
カレイも40㎝はザラ。最大52㎝のイシガレイも釣れた昭和時代は最高の釣り場で、私達は、ここだけは、外洋で竿が出せる唯一の釣り場として海洋磯釣俱楽部の月例会、大会を良くしました。
ただし平成10年以後は完全に釣り禁止となりました。
この波止で海難死亡事故が多発したからです。
今、私達のホームグランドにしていた若松ひびき灘の、話しを主に紹介しておりますが、このような釣り場、釣り事情が九州全域に起きている当時の現実がありました。
難しいテーマが多大ある中で趣味の釣り人、釣り俱楽部として、出来る事をしよう、というところで、私達は「釣りマナーアップ、クリーンアップ」を、海洋磯釣俱楽部、以前の吉田印刷磯釣倶楽部から釣り場美化をしておりました。
入社して間もなく空閑主任から連れて行かれた宮崎県、門川沖の大ビロー島などの荒磯釣り場で、私は帰りがけ師匠からドンゴロスを渡され、磯のゴミ拾いを良くしました。
1971.5.宮崎県門川沖の大ビロー島タツガハナの磯で石鯛釣りの遠藤さんに板橋さん夫婦、松田渡船。
当時の磯場のゴミは、ほとんどビンと缶類です。
これにマキエが入ったセメント袋。プラスチックゴミは、ほとんどありません。
18ℓ缶とかマキエに使ったオイル缶がほとんどで、窪んだ水溜まりに溜まったジャンボアミが悪臭をさせるぐらいで、水くみバケツで洗い落とす作業。
先輩が言います「海がシケたら奇麗になるケ、ヤメとけ」で終了。
ゴミはいつも松田船長が受け取ってくれ「貴方達だけですよ、磯の清掃美化してくれるのは」とかで、いつも船長から倍返しのイモ饅頭に伊勢海老のオマケつき。
これがあったから良く通ったのですが、大分県津久見の磯釣りも随分と海洋磯釣俱楽部は月例会、大会しました。
田川郡添田町に住む、上田川磯釣倶楽部の向井吉夫先生が、月刊 釣ファンに良く紹介していた深良津沖の磯釣に、赤崎港沖の観音崎の磯でもチヌや小グロにアジ、メバルが入れ食い。
集魚剤の代わりに米ヌカをジャンボアミと混ぜていました。これも向井先生のアイデアです。
その中でも磯のゴミ拾い、良くしました。
まだ集魚剤というものがない時代、マキエは丸型のオイル缶か、布地のバッカンに入れていた時代です。
このときは、そんなにゴミはなく、切れたハリスに道糸、サビキ仕掛けに、ときどきの酒やオロナミンCのビンと缶がほとんどで、まだまだ磯は荒れてなかったのです。
そして、釣り人文化が花咲くように一気に開花したのが昭和50年以後でしょうか。
海洋磯釣俱楽部
結成が51年。
次年度は九州礒釣連盟創立で、磯釣り人気はもちろん若松ひびき灘に日曜アングラーがドッサリ入って来ます。
北九州市の玄関口とも言われた、門司港の税関岸壁には、竿が出せないほど釣り人の竿が並び、大入り満員の大盛況。
あまりの人の多さで海洋磯釣俱楽部の月例会は筑前大島とか地ノ島、相の島が多くなりました。
魚が良く釣れる事に加え、定期船で行けるメリットで釣り人は、いささかでも少ない。
それでも磯も波止も、ズラーッとウキ・フカセ釣りでクロにアジ、メイタ、チヌが良く釣れます。そして新聞、雑誌に釣れる記事が記載されると、平日でもドッサリ釣り人が来て遊んでくれ、大島の定期船が釣り人の船でもあるようでした。
その中で釣り人が持ち込むゴミが問題になってきました。
一番多いのが弁当ガラです。ナイロン袋の普及でプラスチックゴミが急速に釣り文化に取り込まれている状況は、進かに伴って増えてきます。
大島の裏磯を案内するマイクロバスの停車場周辺の山頂はナイロン袋に入ったゴミから、缶、ビンの置き去りが増え、民宿のおじさんが回収するも、毎日の釣り人の送迎に民宿兼でゴミ拾いする事が少なくなり強風で、そのゴミが散乱している有様です。
一方、港の5本ある波止でも同じで、定期船の船長が毎日、釣り人を運んでくるが、ゴミを持ち帰る者がいない。釣り人の多さに加え外部の釣り人が大島を荒らす事が漁協で問題になりました。
この話しは民宿業を営む大島屋に吉野屋、軽自動車を貸してくれる民宿業の方達からの話しです。それで海洋磯釣俱楽部は少しでもゴミを少なくする為、毎度の釣り、月例会とか釣り大会の度に釣り場の掃除をおこないました。
会員が15~20名の参加で大島の磯釣りに利用するマイクロバス停車場周辺のアキ缶、アキビン、弁当ガラの回収は大島漁協から頂けた大型のナイロン肥料袋。
ゴツイので破れないので10袋がすぐに満タン。
また、海洋磯釣俱楽部が準備した大型ゴミ袋を持って、軽トラック2台借り切り、磯と波止の釣り場美化を毎度、釣り納めの1~2時間するだけでしたが、協力してくれる釣り人もいましたので、そのゴミを大島漁港の金アミのゴミ箱に入れておりましたら、次回は軽トラック2台にゴミ袋は漁協と、民宿が出してくれる事になり、身体のボランティアで奉仕出来るようになりました。
年に数度のゴミマナーアップでしたが、この事を九州礒釣連盟の広報部長兼、全九州釣ライター協会、小路隆さんに釣りマナーアップの記事を書いたり、月刊 釣ファンにも大島のクリーンアップ作業の模様を投稿しました。
その事で読売新聞や西日本新聞に小路隆先生が私の稿をまとめ、記載してくれました。
釣りブームが大盛況の、この時代、釣り人が集まる所はゴミが参集するのですが、そのゴミを回収する公共サービスがない時代でしたから、釣り場は荒れ放題。
これは近場の港や波止、護岸だけでなく、渡船を利用する磯場も同じような状況にありました。
何より酷いのが大分県津久見と蒲江、鶴見の船長さんです。
ある船長さんが、私達が磯場で回収した大型ナイロン袋を海に捨てたのです。驚きました。
渡船場にゴミを回収する物がないので、結局は家に持ち帰りますが、北九州市若松、小倉に住んでいたときは、ゴミはそのまんま無料で行政が、回収するシステムがありました。
今のように指定ゴミ袋を購入し、行政の下請け企業が回収する義務は、まだ無かった時代です。
それなのに地方の渡船業者、そのものが海にゴミを捨てる行為がありましたから、その港、その地域は汚い港町でした。
その上で私達は、そのような船長さんと、二度と利用しなくなりました。これが昭和なのです。
九州礒釣連盟、広報部長の小路さんがPRした海洋磯釣俱楽部のゴミマナーアップを新聞資料とともにメッセージを、(財)日本釣振興会・東京本部に届けてくれた事で、まさかの(公財)日本釣振興会から海洋磯釣俱楽部へ感謝状が贈られてきました。
会長を、されていた園田 直 当時の内閣官房長官から大きな金メダルと一緒にありました。
昭和54年3月の事です。
その事で、初めて、(公財)日本釣振興会を知り、間に入って頂いた小路 隆先生との太いパイプができ、又、日釣振との架け橋で頂けた恩恵を私達、海洋磯釣俱楽部は受け、東京本部との交流が始まりました。
その事が今に続く大型ゴミ袋や中型ゴミ袋、ときどきのチラシ、ポスター、軍手、ステッカー等が無償で頂け、海洋磯釣俱楽部は、これを利用し、月例会や釣り大会がある度に、釣り場の清掃美化をしました。
まだ、(公財)日本釣振興会の県支部がない時代でしたが、その数年後、㈱釣研、田中釣心さんが始めた釣研ウキ会社が、(公財)日本釣振興会の福岡県支部となり、その上部組織、㈱タカミヤ、高宮俊諦さんが九州地区支部長となり、やっと九州に釣り場美化が芽生える時代となりました。
➈ 海洋磯釣俱楽部、昭和の大会と記念大会
今、私の手元にある「海洋磯釣俱楽部みんなに愛され創立20周年記念誌」があります。
特A4サイズで324Pの厚い記念誌を800冊印刷しました。
全て私が編集出版した本で、当時お付き合いのあった㈱オーナーばりさんと、㈱釣研、㈱マルキュー、㈱ゴーセン様から多大な広告を頂きました。
他、釣具店さんや九州礒釣連盟の九州石鯛クラブ、後藤秀孝さんはじめ、別府磯釣倶楽部の池田幹作さん。料亭ひかり、打越豊一さんなどから大枚を頂き、海洋磯釣俱楽部に関わる釣り人が150人ほどで、1年間かけ出版できた事、本当に感謝しかありません。
その記念誌は、昭和の海洋磯釣俱楽部の記録を余すことなくアピールできているのですが、2割ほど引用で私のホームページの中でも紹介しております。
昔懐かしい事ばかりですが、その121Pに海洋磯釣俱楽部22年の記念大会経路を紹介しています。
第1回大会、昭和51年3月21日の福岡県筑前大島磯釣り大会から、第33回、昭和63年9月25日、大分県津久見四浦、大元港の神田船長、ひかり丸で、蒲戸の磯釣り大会が昭和時代の最後の大会となります。
その本誌に第51回、平成8年10月20日、大分県蒲江、猪串港の三幸丸渡船で深島の磯釣り大会まで記載されています。
その後はホームページに組み込まれたり「機関誌 海洋だより」で、大会を紹介しているのですが、多分100回大会は、終わっていると想うのです。
昭和時代の海洋磯釣俱楽部の大会は年2度か3度あり、全てにおいて常会というシステムで決められていました。
その大会の多くは磯釣りvsキス釣り、イカダ釣りと一般参加者OKの釣り大会でした。
まだ、スタートから始まる若者世代、平均年令が20代、やがて30代となる訳ですが、会員の多くが望んだ大会、プラス何でも良く釣れる。
釣れる釣り場を好むので、情報というアンテナは会員皆、話し合いを良くしました。
その中で、記念大会だけ少し紹介すると、創立大会の筑前大島。
1周年記念は鐘崎、波津海岸は前ページで紹介しました。
5周年大会は第13回となり山口県豊浦、黒井漁港から涌田の磯まで幅広く設定し、一般参加者を含めて46人の参加で、対象魚はクラブの規定魚23種類なら何でもOKで、全員に参加賞。
10人以上の方にトロフィが贈られました。
協賛してくれたのは、はまや釣具店さん。
大会費無料で参加賞付き、豪華な賞品があるのもスポンサーのおかげ。
そして、お世話係の私達のガンバリと寄付です。
新聞の取材と月刊 釣ファン誌に4Pの記事とグラビア4P入りました。
10周年記念は(第24回)となり、こちらはホームグランドの若松ひびき灘一帯、新聞、雑誌、はまや釣具店のPRで110人ほどの参加者がありました。
このときは㈱オーナーばり。㈱オリンピック。㈱ゴーセン。㈱がまかつ。(公財)日本釣振興会。全九州釣ライター協会、㈱釣ファンなどが、主なスポンサーで、でっかいトロフィが寄贈され、盛大な大会となりました。もちろん大会費無料。
はまや釣具店さんにお願いして北九州釣具商組合のテント、二張り借りたり、公民館から長テーブルなど持って来て、私などスタッフは釣りどころではないぐらい、お世話係で大変でしたが、やっぱり記念釣り大会は、全くの知らない釣り人がやって来て、コミュニケーションでき「こんな釣りクラブがあるんだ」という事を知ってもらい、大会を通して我がクラブに入会する釣り人が何人かいました。これがキッカケで釣り仲間になれる、気風が生まれたのです。
1986.6月 若松「はまや釣具店」 会長夫婦と、江藤社長。海洋磯釣俱楽部 渡辺会長。参加費無料、全員に参加賞に25のトロフィとブロンズ像に、盾プラス、ロッドやリールなど40人に賞品がありました。
要は海洋磯釣俱楽部の釣り大会を通して、同じ釣り人同志で気が合えば仲間になりましょう。
それが伝統になり始めた頃が、昭和時代の海洋磯釣俱楽部の釣り大会です。
そして15周年記念大会(第36回)は平成2年4月15日、大分県坂の市大会。
このときは凄かった。
日頃から坂の市の沖防に良く通っていた私達、坂の市の森釣具店イコール、清吉丸渡船さんは常連で、地元の九州礒釣連盟、大分県支部の広報部長の野村美智雄さん、他のチームや、博多から博多フレンドサーフ、梅原会長以下の、85名の参加で大賑わいでした。
夜釣りから始めていたので清吉丸さんと、もう一パイの渡船、二ハイで大忙しの大会で、大分テレビ、大分ラジオが取材に来てくれ、このときは検量後に全員、お弁当食べ、表彰式という、今までにない大会スタイルとしました。
これも、大分支部の野村美智雄さんの協力が多大あり、この大会を応援してくれた、㈱ゴーセン。㈱がまかつ。㈱オーナーばり。㈱オリンピック。㈱釣研。㈱ボナンザ。㈱ルミカなど、たくさんのメーカーさんがあり、(公財)日本釣振興会のゴミ袋を頂いて3つの波止掃除を皆でしました。
上天気で良かった、上物指導部長の石松勇さんがマイクロバスで大勢参加者を連れて来て、ブルーシートまで準備し、本当に、このときは仲間のありがたさを感謝するばかり。
この事をキッカケにして博多フレンドサーフ、梅原昌会長との交流が始まり、同会主催の長崎県平戸島、夜釣り、投げ釣り、大物釣り大会、第3回大会より参加した私です。
そして海洋も、この大会に参加する事に決め、月例会にする事もありました。
又、大分県支部との交流も、少しずつですが深めてゆく海洋磯釣俱楽部でした。
1987.10.大分県四浦半島大元港ひかり丸を利用した海洋磯釣俱楽部の大会は釜戸、カネイシと大カガミと小カガミ
➉ 海洋磯釣俱楽部の総会と新年会
これまでに紹介した昭和の海洋磯釣俱楽部は、創立から始まった、釣り仲間と遊び、友達を増やし、釣りを相互、互助というアクションから始められ、仲間意識、チームワークを貴める為に、お世話係するハートは何か、という事を第一に考えプログラムを楽しみながら、お世話係をさせて頂いている、ボランティア奉仕の志に基いています。
その事で物事を決めるプロセスは、皆のパワーが必要です。
チームプレーも、そうであるように私達は会長の基でチームプレーを多方面で行ってきました。
このような事をする為にも、話し合いの場。
例えば毎月一度の月例会を毎月一度、平日の夕方、参加できる会員さんで行っておりました。
その上で一年の行動計画は、やっぱり目標を持つ、モチベーションを貴める事が大切ですから、会員皆して、話し合いの場に参加し自由な意見を述べる場、常会を設けました。
吉田印刷磯釣倶楽部は会社の契約スポンサーの上で成り立つものでしたから自由に、お金は使えません。色々なサイドで会社との繋がりを意識する為に会社組織の一員が加わり課長が、その責を全うしていたのです。
しかし海洋磯釣俱楽部は、そのような契約スポンサーはありません。
全て私達の会費の中で運営するので、その使い方も皆の了解を得て使用できる仕組みとなり、その仕組みを同等にした色々な役職を作りました。
これは海洋磯釣俱楽部の中で明記され、それぞれの役の方が、その責を負いながら全体意見を集約する仕組みです。
上手に会の運営を行うのも会長のリーダーシップがあり、そばでサポートするのが事務局長の、私でもありました。
そして担当役員も、それぞれ決め、全員、何らかの役を与えられ何かの形でお世話係を、共有するシステムです。
海洋磯釣俱楽部の良いところは全員でプログラムを作り、全員で協力しながら行動する事でした。いわゆる一人一人のパワーを作る源がチームワークなのです。
そのような規約をTOTO機器釣り部、三萩野サーフキャスティングクラブ。
そして九州礒釣連盟から北九州支部、若松地区の、それぞれに於いて規約がありましたので、これ等を総合し海洋磯釣俱楽部に、ふさわしい規約を作ってゆく訳です。
しかし最初は、ある程度が、ベースみたいなものです。
それを基にして1976年3月1日、第1回、海洋磯釣俱楽部 総会を開催し、決定され、毎年の3月に総会をする。もしくは12月か1月に開催しておりました。
ベースは全て常会にあります。
毎月一度の釣行会に加えて平日の夕方6時か7時、1~2時間、常会をする事なのです。
このときには主に今月の大会は、等々の話し合いを参加した会員で色々な、きめ細かいところを決めておりました。
1980年 北九州市若松二区公民館で海洋磯釣俱楽部の新年会&総会のもようです。
決して会長が決めるとか、事務局長が決める等ありません。
参加した会員さんの中で、今、釣れている釣り場を聞いたり、釣り情報を聞けた上で釣り場も決まり日時など決定していました。
その上で、昭和の釣行会は、ほとんど一緒に出発なのです。
半分以上の会員さんが吉田印刷アパートに住んでいましたので、送迎の意味合いを込め、会社前に全員集合し、乗り合いで〇時出発とか、帰りと同様に〇〇を検量場所にしてから安全運転で、それぞれの会員さんを送迎して帰宅する、といった具合に一緒に行動する事が多くありました。
これ等も常会で決める主な内容です。
そして、これは規約に入れた方がイイ、と言うような雰囲気の内容が常会の中で、釣行会の中で、色々なアイディアが生まれてくるのです。
そのような事を正月以後の総会で全員集合し総会で皆の賛同を得て規約に加えます。
反対に、ふさわしくないような事は削除されたり、色々な想定の中に皆の考えがまとまる事を考え、海洋磯釣俱楽部の1年間のアクションプログラムが総会で決定されます。
もっとも大切なのはお金ですが、会費は少しだけです。
九州礒釣連盟の上部団体に納める金額は大きいのですが、海洋で使われる会費は年額1200円→2400円でした。
こんなに安い会費でも、内容が充実していました。
少しずつですが「機関誌 海洋だより」を発行したり、海洋に協力して頂けるスポンサーから、大会ときに使って下さいの賞品が頂ける事が増えてきました。
これは私の新聞、雑誌の影響もあるのですが、何より会員皆して釣り場美化、ゴミマナーアップ、クリーンアップを大変良くしました。
汚い北九州、洞海湾、大気汚染された環境を、日頃から見ていましたので、釣り人のマナー、ゴミ問題は許せなかったのです。
これは会員一同、全員で「来た時よりも奇麗な釣り場」にしました。
このような事をアピールし、応援してくれるスポンサーがあればPRする事を良くしました。
ペンライターという肩書がある中で、私と同じような活動を始めた妻(釣のファン子)や、弟(京都テツ)という、強力な助っ人も、文章でPRしていましたので、昭和時代の海洋磯釣俱楽部は人気急上昇中でした。
その事で会員数が16人→22人→26人→30人と増えてきます。
そして平成に入る頃には37人という会員数に加えリタイアしたOB会員を含めると80名ほどの会員さんを加える事ができました。
みんな若い10代から20代、30代の若者集団でしたから、バイタリティーな行事がありましたね。その上で海洋の後押し、してくれた、TOTO釣り部とか九州礒釣連盟の有名な方々のおかげを忘れてはなりませんが、合わせて釣り糸の㈱ゴーセン。
(公財)日本釣振興会。㈱オーナーばり。㈱がまかつ。㈱ルミカ。㈱オリンピック(マミヤオーピー)。そして後でお世話になった全九州釣りライター協会。
㈱釣研。㈱マルキュー。㈱ボナンザ。㈱ダイコーなど、釣界の一流メーカー様が私達の後押し、してくれたから平成に掛け大躍進した海洋磯釣俱楽部でした。
⑪ ファミリーフィッシング文化と海洋磯釣俱楽部
海洋磯釣俱楽部の結成当時は、独身の若者が半数以上。
ファミリー世代が30代で、みんな2才~10才の子供達が多く、保里会長には小学1年生の女の子。私の師匠になる内田さんには、チョット大きな女の子でも5年生。
もう一人の師匠、空閑さんは二人の息子も小学生とファミリーが多い時でもありました。
そのような時代にマイカーを持つ30代の中堅社員は少なく、みんな若者達の車に乗せてもらった釣行があり、遠征釣りも多くありました。
しかし昭和55年ごろから急に、その中堅社員がマイカーを持つ方が増え、近場の釣りに、その家族も一緒に行く事が増えてきたのです。
同等に会員もドンドン増え高校生も入会するようになってきました。
それで、毎月の常会の中で高校生も会員にしてもイイのか。
その子供達の親は、この事を知っているのか、の問題になり、親の同意で会員になれる事にしたのです。しかし自然を相手にした魚釣りは、様々な難問が突き刺さって来ます。
まず釣り場での事故。ケガぐらいならイイのですが、海難とかの件。
そして送迎してやるデメリット。
これは、紹介した会員が責任を取るなどで、色々困ってしまう事が多大あり、何より世話をする会員の負担が大きくなってきました。
この時代、学生が4人も入って来たから、よけいに海洋磯釣俱楽部のハンディが大きくなりました。会員家族のファミリーは問題ないのですが、この件については釣りクラブが負担するとか、会員も、お世話の奉仕という事で昭和の時代まで中学、高校生まで受け入れました。
1982.の写真です。北九州市小倉日明の切れ波止、今の日明海釣り海峡公園です。中、右は下関市彦島荒田海岸に、以前は日明から彦島のカーフェリーありました。
その後は規約の中に会員家族の子供なら正会員として登録。
それ以外の学生は受け入れないと決まりました。
そのような若者世代が多かった昭和時代は月例会の釣行を家族でも参加できる近場の若松ひびき灘とか関門海峡、山陰海岸、筑前大島や地の島、鐘崎、波津、脇田、岩屋の波止釣りと、とにかく近場の月例会を良くしました。
ときたま連休日が重なるときは、金曜日か土曜日からの夕方から出発し、長崎県福島や鷹島。肥前町や呼子方面の遠征釣行もファミリーフィッシングで参加でき、釣り場が、みんな一緒の海岸、護岸からの釣りを良くしたものです。
子供達に加えて、お母さんまで魚釣りできる機会があるので、私と洋子ちゃん、娘の裕美も小さいながら山口県青海島で月例会&キャンプ、海水浴、なんでもOKの釣行会を、釣りクラブで好きなようなゲームフィッシング。
要は、みんなで楽しむ月例会であり、競い合いとかのハートは少しで、家族を中心にしたゲームフィッシングで子供達が釣りを学ぶ機会を考えるプランを、こよなく愛したのです。
そのようなファミリーフィッシングの記事を書いては、月刊
釣ファンとか新聞等に公開する私。
もちろん海洋磯釣俱楽部とは別の、色々な釣り場の探査を行う事もファミリーで多くあります。
その上で私と弟達5人兄弟は、とにかく色々な釣り場巡りをこよなく愛したのです。
要は、魚が良く釣れる釣り場を探す事なのですが、これも、雑誌とか新聞で知る釣り情報を調べ、実際に釣行してみて、その穴場を知る事で、海洋磯釣俱楽部の月例会とか大会に活かす事を、私は率先して良くしたのです。
弟達の協力とか、弟が入会しているTOTO釣り部とか、三萩野サーフキャスティングクラブなどの釣り情報、釣り場を参考にした釣り場も限りなく多くありますが、昭和時代は、何処の釣り場も魚が濃く、遠征すればするほど釣好はあった時代です。
そして一番多く竿を出したのが関門海峡。
ここはマイカーのそばから釣りが出来るし、仲間達のマイカーが7~8台ズラーッと並んで竿を出す、投げ釣りとか、裏門司の白野江海岸に田野浦海岸、埋立地はウキ・フカセ釣りでメイタ、メバル、クロが釣れる穴場が多くあり、ファミリーフィッシングを多くしました。
前日からとか、半夜釣り、色々なパターンで家族の釣り、いわゆるファミリーフィッシングの海洋磯釣俱楽部は、常時こんな釣りクラブで、そのような釣りクラブは北九州地域には存在して、いなかった時代です。
それを、もっとも多く、応援してくれたのが月刊 釣ファンです。
私の記事を毎度6P~12Pで紹介し、PRしてくれました。
そして、そのような釣りスタイルがバカ受けしたのが昭和から平成の始まりでした。
九州各県の近場の波止は、何処も大賑わいの大入り満員の釣り人で、週末は釣り場がないほどの人気。特に、魚が良く釣れる釣り場ほど、ファミリーの人気が高く、この時が日本全国、釣り人3千万人いた時代で、釣具店は大入り満員で、何処のお店も活況を得ていたと想うのです。
その真っただ中にアピールする私達、海洋磯釣俱楽部でした。
そして、ファミリーフィッシングに合わせて年一度の家族慰安会をする事になりました。
北九州市若松高塔山公園は、4月の花見会が多くあり、それ以外の、門司白野江公園、小倉森林公園、小倉到津遊園地、中津市の耶馬渓、山口県の秋吉台。
魚釣りを兼ねて長崎県福島の土谷海岸。
山口県青海島のキャンプ、海水浴。
若松岩屋のキャンプ、海水浴。鐘崎の三保松原海水浴兼キャンプ。
色々ありそうなのですが、年一度の家族慰安会には毎度30~60人ほどのファミリー、家族に祖父、親戚、友人まで参加できたので、魚釣り以外で、こんな事やっている私達はチョット変かも?。しかし、これが海洋磯釣俱楽部の常会とか、総会で決定され、今度は○○さんが実行委員長で、リーダー役が決まり、それをサポートする若者達が、たくさんいたから楽しかったのです。
釣り以外の楽しみを加えた、趣味の会&海洋磯釣俱楽部は、色んな形を変えPRした私でしたが、これが現実に受け入れられ俱楽部が続く限り開催していたから凄い。
それにしても、古き良き時代にハマリ込んだ私であり、趣味の、釣り好きの海洋磯釣俱楽部、会員達でした。
2023.5. 第四巻 海洋のおいたち 終編3へ