小説 マイ・ファミリー 第三巻 「車イスの家族」 完結編
はじめに 作者の私 上瀧勇哲の紹介
私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市に住んでいる。その上瀧名は市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。
そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者と、なるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎて名前負けしていると父母から良く言われた。それで上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えてもらうのが大変だった。その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成の始まりまで大活躍した上瀧和則さんだった。
競艇の選手で日本一を決めるジャパンカップを2度制覇した名選手で年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。
そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから彼のことを良く聞かれた。私より年下になる和則さんは遠縁の親戚で、話のネタに欠かせない存在だった。
しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでもと言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気。これは母方の祖父に似ているらしいが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。
そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、そのペンネームを使い20年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり豊かな米作りができた処。
そして三郎は人名、丸は所を表すので三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め米作りに励んだ、と云うのが小倉藩の書物にある。
さて1950年、小倉三萩野三郎丸で生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。私という人間を形成してくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びを教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。
僅かばかりの時間の中で生き綴た、喜びと悲しみのステージを皆さんにアピールしたい。
① 社会人として、始めての魚釣り
入社して初めての夏がやって来た。
仕事を教えてくれる中原先輩と、親父のような萩原さんが、私が趣味の釣りをすることを知り、「若松でシロキスが良く釣れる釣り場を案内してヤル」と言うので行くことになった。
6月の日曜日の朝、まだ4時は真っ暗だ。
空を見上げると満天の星空がキラキラ輝き、大きく丸い月が、淡いオレンジ色に見える早朝、弟が普段使っているチャリンコを貸してもらい、家から若松渡場まで走ることにした。
後ろにバッグを括りつけ、投げ竿を肩に掛け必死にペダルを踏む。
戸畑、工大前を過ぎると明るくなってきた。
そして若戸大橋が見えるころになると、サドルに擦れた金玉が痛くなり、ヒリヒリになっていた。それでも戸畑渡場まで一気に急坂を転げ落ちるように到着。
もう5時を過ぎており、渡し場の渡船が夜勤上がりの人々を20人ほど乗せ「ボーン」と汽笛を鳴らし出発の合図。そして渡船が洞海湾を横切って行くとき、見上げるような大きな貨物船が、すぐ前を通り過ぎると、大きな波が渡船を左右に揺らし、立っている人を慌てさせた。
若松渡場に着くと市営バスが待ち構えるように、渡船の人々を乗せ、走り去る。
私は自転車料金と合わせた20円を料金箱に入れ若戸大橋下をくぐり抜け、若松区役所前バス停そばの伊木釣具店に行くと私を見つけた萩原のオヤジが、「上瀧、遅いやないカァー」と激を飛ばす。その中に、いつもの親父の愛嬌が詰まっているのを感じながら、すぐに伊木釣具店に入り小ケブを50g買うと、伊木の親父さんが「ガンバッてこいャー」「オマケでエサ入れとるけナァー」と、大きな声で私に景気付けてくれる。
ここから先の釣り場は分からないので中原先輩が先導する自転車について行き、後から萩原のオヤジが若いのに「早く行け」と、追ったくる。
若松、恵比須市場を通り抜け、若松高校前の昇り坂道を必死でこぐ私達。
もう全身汗びっしょりだ、しかも金玉が、ここに来るまで痛いのが、更に痛さを増し、もうどうにでもなれ、というところまできている。
それでも元気のイイ中原先輩の後を必死で追う私。バス通りの若松高校の正面を過ぎると、今度は下り坂。もう目の前に小石の海が広がり、磯の香りがプンプンしてきた。
その海岸通りは遠浅の渚が続き、藻場に釣り人が一人、二人、釣りをしているのを見ながら、小石観音から不動下バス停、そして大きな若松火力発電所正門前を通り過ぎると、やっと目的地の脇田海水浴場があった。
しかし「ここじゃナイゾ、上瀧」と、萩原の親父が、またまたハッパをかける。
脇田の港を通り過ぎ、畑に入る農道を通り、海を目指すと目的地の海辺があった。
千畳敷の地名で知れる釣り場で、その岩盤が沖まで続き、ここを釣ったらアイナメ、メバル、カサゴが良く釣れるが、今日は投げ釣りでシロキスを釣る。
それで、その先の砂浜が今日の釣りポイントだった。そばに廃船となった壊れた木造船があり、ここを休息地とし、ここから投げ竿を出す私達。
萩原の親父が水筒をくれ「上瀧、飲め」と勧めてくれる、冷たい麦茶が旨い。
そして、4mの投げ竿に小型スピニングリール、道糸5号に中通しオモリ15号を通しサルカンで止める。そのヨリモドシにハリスが付いた流線鈎を結ぶだけの簡単な仕掛けに、小ケブの虫エサを付け、40mほど投げた。そして道糸をピーンと張っていると、竿先にガッーンのアタリだ。小さなスピニングリールでガリガリ糸を巻くと赤い魚が釣れていた。
萩原の親父が「その魚はキュウセンベラと言って、煮付けに旨いゾ」と言う。
そうか、これがキュウセンベラなのか、と、魚の名前を覚えた。
向こうで投げている中原先輩は25㎝もある大きなシロキスを続けて4匹釣り、もう最高にご機嫌だ。そして「上瀧こっちに来い、釣れるゾ」と呼んでくれたので先輩のそばから40m投げると「もっと遠くに飛ばせんのか」と言われた。
先輩はオモリ20号で60m以上飛んでいるのだ。それでも私の竿先が大きく引き込まれ、これは大物と想ったが、リールを巻くと小さなシロキス20㎝が釣れた。
魚のわりに良く引くヤツだと想った。萩原の親父が「シロキスは小さい身体で力強く引くので、釣りをするヤツは、みんなこのキスを釣りたがる」と言う。
2時間ほどで私はシロキス2匹、ベラ3匹。先輩はシロキスを12匹クーラーに入れていた。
そして「上瀧、にぎりめし食え」と萩原の親父が言う。
今日は、なんもかんも親父さんが準備してくれた。
なんでも私の入社祝いを兼ねている、との事だった。
大きな白いオニギリと天プラ、ソーセージ、玉子焼きに、煮豆が重箱に、いっぱい詰まっており、旨そうだった。それを三人でペロリと食べてしまい、最後に冷たい麦茶を貰って十分満足したと想ったら「上瀧、釣るゾ」と中原先輩がケシかける。
どうやら今日の釣りは会社の釣り仲間とか、仕事帰りに寄る坪根酒店で、皆に言いふらしているので、魚をたくさん釣らないと先輩のプライドが保てないらしい。
潮が満ちてきて条件が良いこともあり、私はシロキスを3匹追加した。ベラは2匹、メゴチは10匹ぐらい釣ったが、食べないのでリリース。午後2時まで釣り、エサが無くなり終了。
釣った魚は、お昼を準備してくれた萩原の親父さんのクーラーに全部入れた。
「上瀧すまんなァー」と、お礼を言ってくれた。
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萩原、中原。永谷さんファミリーと私。(1970頃の若松バス道り下の不動下海岸は藻場だった)
帰りがけのバス通り、小石海岸で磯遊びをしていた永谷さん家族を見つけた中原先輩。早速、冷やかしで4m下の海岸に降りてゆく。私も親父もついて行き、ついでにサザエとビイナでも取ろうかと、みんな元気がイイ。永谷さんは吉田印刷所三階の平版製版を勤める大先輩であるが、結婚して子供が生まれ、今日は2才の子と一緒だ。それに奥様の妹になる道子さんも一緒だった。
道子さんは、私と同じ吉田印刷所に勤める製本場の子で、私より二つ下の可愛い女の子。
「こんにちは」と、向こうから声をかけてくれるが「ア、こんにちは」とチョット照れくさい。
会社で会うのと、こんな場所で会うのでは雰囲気が全く違うのだ。それでも一緒に磯遊び。
「ビイナが、こんなにたくさん取れたんょ」と見せてくれ、奥様が「サザエが10コも入ってますよ」と、ニコニコして愛想がすごくイイ人。今日は夕方6時まで磯遊び、ビイナや小さなサザエ、アワビ、エビ、そしてカニも取った。それらは、みんな永谷さんのクーラーに入れプレゼント。そして私は夜8時に帰宅でき、楽しい、面白かった一日を家族に報告した。
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北九州市若松区脇田浜、今の脇田海釣り公園前の海岸浜。1969.5.の写真、私の釣りスタイル19才
② 若松の吉田印刷kkとは
次の日の会社出勤は、もう金玉が腫れ上がり、歩くのが辛い……ガニ股歩きで30分かけ、やっと三萩野バス停まで行き、いつものように若松行のバスに乗り、若松橋台上で降りる。そして公団職員が操作するエレベーターで降り、ガニ股歩きで、いつものように会社に着くと、
石橋のじいちゃんが「お前、歩きが悪いのぉ、どうかしたか」
「イヤ、ちょっと」と、言い逃れして着替え。いつもの石橋のおばあちゃんからオロナイン軟膏を貸してもらい、金玉周りを塗って大分良くなった。そして、その日は、やっぱり残業になった。
すると昼過ぎ、永谷さんの妹、道子さんが来て「ジョーさん今日ね、夕ご飯準備しているので食べに来て、と、姉さんが言ってますけど?」
私 「どうしてー」
道子 「昨日、たくさんビイナとかワカメ取ったでしょう。それを貴方と一緒に食べたいと、兄も言ってるの」
道子 「今日、残業でしょ、知っているのよ」
私 「アァー、そうか、じゃ頂きに行く」という事で話がまとまり夕方5時の休息時間で、会社からわずか3分の永谷さんが住む社宅に行くと
奥様が 「昨日はお疲れさま、帰りは大変だったでしょう」とニコニコして迎えてくれた。
すると、すぐに永谷さんも帰って来て「オレも今日は残業、ちょうど良かった一緒に食べよう」と言って、始めて頂くカレーライスは大盛で、テーブルの上にビイナとサザエが盛り合わせて置かれていた。それに素手で捕まえたエビとカニがカラアゲされ磯の香りがプンプンの食卓だった。
道子さんがカレーのお代わりをついでくれ、しばし幸福な時間が過ぎ、お礼を言った。
今日は二階の活版植字組版で残業の8時だったが、あんまり食べ過ぎ、昼寝するような気分。
それで主任の宮村さんが「上瀧どうかしたか、気分悪いか」等々言われ、ドキッとした。
その夏、私は想い切って車の免許を取ることにした。
それで親に内緒の夏の賞与を全部入れ、小倉城野自動車学校に夜間、通うことになった。
夏の間は仕事も少なくなるが、とりあえず会社に迷惑をかけるかも分からないので直属の上司、空閑主任に申し出て、一ヶ月、残業なしの許可をもらった。
そして毎日の午後6時前には小倉駅前から出る城野自動車学校のスクールバスに乗り、1時間の講義。2時間の実技をする事になり、上手に行けば28日間で免許が貰える予定。
それで学科の交通ルールは簡単だったが、車の基礎的な構造が少し苦手。
そして始めての実技運転は第一、第二ステップで2時間補習が入り、これで余分なお金が必要になった。
それ以後は仮免許も一発で合格。本検も一発でクリアでき、だいたい予想通り免許証が貰えた。それで「若い者はすぐに免許証が貰える」と、会社の皆から言われた。
9月中旬に免許証は貰えたが、後は通勤する車が欲しいのだ。それには残業をたくさんし、稼ぐしかなかったので、とにかく残業を良くした。当時は残業が毎月100時間は当たり前で、150時間する先輩もいたほどで、基本給より残業代の方が多い先輩、上司がたくさんいた。
それで仕事が大分できるようになった私は、各職場から引っ張りダコで泊まり込みの残業を良くした。その当時、会社のすぐそばに独身者が入れる2階建ての借家が3棟建あり、寮母を含めて25人ほどが、ここで生活していた。
私の先輩、独身の中原さんもここに住み「上瀧オレと一緒に寝てもイイゾ」と、良く冷やかされる。そして、なによりイイのが、残業で泊った者は、ここで無料の朝食が頂けることだった。
16畳ほどの広間に、長いテーブルが並べられ、12人ほどが、ここで一緒に食べる。
その前に24インチのカラーテレビがあり「君は心の妻だった」とか、フランク永井の「君こいし」の歌をうたっているのを見ながら、夕食もここで、できていたから吉田印刷所に勤める若者は、この寮で多くの幸福を貰ったと想う。そして次の年、念願のマイカーを手に入れた。
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中古車であるがホンダN360軽自動車は人気車だった。
私がマイカーで通勤し始めると、早速、釣りキチの先輩、上司が「魚釣りに連れて行け」と、うるさく迫られた。もちろん彼女のいない私は「日曜日は暇」ということを皆知っているのでイヤイヤ釣りに行く事になるが一番釣行を多くしたのが空閑敏明主任で、私の直属の上司。
そして仕事も魚釣りも、私の恩師となった方。
その空閑主任の飲み友達が、今度の主人公になる内田小二郎さんである。
③ 釣りキチの上司
内田小二郎さんは吉田印刷所に勤めて10年ほどになるが、前の会社で印刷機械操作中、事故で左足の膝から下を失った。それで義足を付けているので、少し歩きがおかしいかなァーと、前々から思っていた。その内田さんは二階の植字組版する熟練工で、この職場のリーダー的な存在だった。
もちろん、その上の上司に宮村主任がいる。その職場に8人ほどの職工。
その中に私が時々呼び出され、内田さんの隣りで、少しぐらいできる植字組版をしているのだ。
若い私は内田さんから優しく仕事を教えてもらえるのだが、なにより私を「ジョーさん」と呼んでくれるのが好きだった。それは私と同じ趣味の釣りをすることで、時々私の車で一緒に釣りに行くから、より可愛がってくれたと思う。
そして5月の連休日は空閑主任が私を利用して、始めて宮崎県門川町沖の、ビロー島の石鯛釣りに行くプログラムを組み、中原先輩と内田さんの4人で行くことになった。
夕方、通いつけの、はまや釣具店でエサを買い、空閑主任の家で夕ご飯を食べ、午後7時出発。
小さな軽自動車に荷物が満タン。狭いが、私しか運転できる者がいない中、目的地の門川町庵恩港まで6時間の運転だ。そして、ひたすら国道10号線を南下する。
この当時の道はトンネルが少なく、山登り坂や坂道のカーブ道路が多く、ジャリ道さえあった。
やっと目的地の門川町の松田渡船に着くと、もうグッタリだ。
そして船が出る午前4時まで、一休みで仮眠ができる。しかし、すぐに松田船長から起こされ、暗い内から出船するのだ。このとき足の悪い内田さんは近くの波止からの釣り。
私と中原さん、空閑さん、そして常連の釣り人4人ほど乗船し、向かった釣り場は大ビロー島。
しかし、ここまで行くには船より高い大きな波を乗り越え、もう恐怖なのだ。

1時間かけて着いた大ビロー・タツガハナの磯は、大きな波が断崖直下の磯を叩きつけ、とても磯に近づくことさえ無理と想ったら、その磯に上がるというのだ。
小さな伝馬船が瀬付けするのだが、意外と平気な船長。
瀬付けするとき、馬力のない船が、波を利用して磯に近づき、磯にブツかる手前で後退する、といったぐあいに、船の船首が一番磯に近づいたところで磯に飛び乗るのだった。
それで先に空閑さん、次が私。しかし、怖くて、怖くて、飛び乗れないのだ。
すると後ろから船長が拡声器で「今、飛べ」と言うのだ。
二度失敗して、もう船長がカンカンに怒っている。
それで中原先輩が「オレが合図するけェ、飛べ」と言われて、やっと飛べた。
瞬時に空閑主任が手を取ってくれて「ホッ」と胸をなでおろしたが、今度は荷物が船から放り投げられる。それをキャッチして磯場に置く。最後に中原先輩が磯に飛び乗り、やっと磯上りが無事できた。
しばらく呆然としている私、小便がチビっているのが分かる。そして先輩達が竿を出し、釣りを始めるころ、やっと私も竿を出す、と言っても半分くらい気分喪失している。
この日は昼の2時まで釣ったが、私は昨夜の運転の疲れから磯で昼寝を4時間した、と空閑主任が言う。彼達はクロやヒラアジ、カンダイを釣ったが、私は小さな熱帯魚が10匹ほど。
そして迎えに来た松田渡船のホースヘッドに飛び乗るときも怖かった。
海が荒れていたので、小さな渡船が木の葉のように右や左に揺れ、その渡船のホースヘッドに飛び乗る事は、至難の業と思うが、乗らないと帰れない、もう私は死ぬかと想った。それでも迎えに来た渡船に、地元の釣り人がいて、私達に協力してくれたおかげで私は転がるようにして乗れた。
みんな無事に船に飛び乗れたが、この時は、もう絶対に、ここにはこないと決めた。
そして帰りの船、大自然の海のパワーを感じながら、小さな木造渡船がポンポンと黒い煙を吐き、大きな波の間に挟まると、下から見る波の高さがビルの三階に見えるのだ。
そして、次の波が来ると、今度は一番高い波の上に船が昇り上がる。
その上下作業の繰り返しが続き、「もう絶対に、こんな所に来ない」
「もう、この船に絶対乗らない」そう想っている私が、いつの間にか、この状況が掻き消され、また、魚釣りに行くのだから、この時代の私達は気が狂っている、としか考えられないのだ。
そして船がやっと港に着くと、波止で釣りをしていた内田さんがニコニコして出迎えてくれた。
「どうやった?」 私「熱帯魚」
内田さんは波止からのウキ釣りで30㎝もあるクロを25枚に、チヌの45㎝が2枚、13ℓのクーラーに入りきれないぐらい釣り「ジョーさんのクーラー出し」と言って、クロを5枚もクーラーに入れてくれた。
そして、先輩達が渡船の待合室に入ると、船長の奥様から風呂を勧めてくれたが、私達は時間がない、それで奥様が手作りしたホカホカ芋まんじゅうを頂きながら、船長さんと今日の釣り果の話しが、実に長いのだ。「芋まんじゅうが山盛りにあるのでドンドン食べてね」の奥様。
それで4つ目を取ると、内田さんが「若いモンは、よう腹に入る」とか言ってくれて、やっと落ち着いた私だった。
そして美味しいお茶を頂き、船長さんがオミヤゲの伊勢エビを一匹ずつプレゼントしてくれた。
そして目の大きな可愛い、船長さんの娘さんが、私に「帰りがけ食べてね」と、ピンク色した、特別な芋まんじゅうを5つもくれた。ピンク色のまんじゅうは、食紅を少し入れた、カワイイまんじゅうで、「中学生の娘が作ったのょ」と、奥様がニコニコして教えてくれた。
松田船長には娘さんが三人いて、先程、ピンク色のまんじゅうをくれた女の子が長女で、今、釣り好きの婿養子を探しているとのことだった。
それで空閑主任が「上瀧が第一候補だ」と言い、皆の前で笑わせてくれた。
帰りは、途中の別府国際観光港、前にある、20円温泉に入り、側にある食堂に入るのが私達の毎度のパターンだ。ここから若松まで、あと半分あるが、いつも空閑主任が私達の食事をこの場所で、おごってくれた。国道10号線を北上し、若松には深夜0時を過ぎていたので、この日は主任の家で泊り、朝ごはんまで頂ける、いつものパターンだった。
そんな釣行を重ねながら、今日も内田さんの隣りで仕事をしている私。
そんなとき、内田「ジョーさん、今度の日曜日は何処に行く?」と、誘いの言葉。
内田さんは知っているのだ、と、想いつつ「山陰の油谷湾大浦港へ、永谷さんと田代さんと」
内田 「一人あいているならオレも入れてくれ」と言う事で内田さんも仲間入り。
4人で山口県油谷湾大浦港波止でクロ釣りすることになった。
吉田印刷所の三階、平版製版部では、永谷さんからフイルムの貼り込みとか現像、定着液を浸け、水洗いし、写真の出来具合いなどの仕事を教えてもらったり、残業するときなどで、時々食事に誘われることもある。それに妹の道子さんが製本場から印刷機械を廻している、私を見つめているからイヤとは言われない。
田代さんは最近入社した方で、平版製版の技術者、この人はすごく仕事が上手で丁寧。
こちらも私を好いてくれるが、釣りは少しだが、大型免許を持っているので車の運転は出来るとかの人だから、運転してやる、とかの話し。
そんなチームが早朝の4時、若松を出発し、山口県油谷町大浦港波止でメジナを大漁した。
それも内田さんの指導があり、鈎掛かりの良いオーナーばりのヤマメ鈎を使い、活きの良いゴカイ虫が最高に食いが良かった。
それに、永谷さんの愛妻弁当を食べたり、「ジョーさん、食べりーィ」と内田さんの弁当までつついて食べる私。正直、魚釣りより弁当食べて昼寝が好きなのだ。
そんな釣りを楽しめた次の週の月曜日、もう私達が大浦でクロが入れ食いで釣れた、ことが評判になっているのだ。
今日は平版機械場で仕事をしていると、通りがけに皆が私に「昨日入れ食いやったな」何が釣れた、大きさは、エサは、と聞いてくれる先輩達、仕事中にそんな話し、したくないのだが、なぜかしら話しを聞きたがる職場の釣りキチ。
そんな時、営業の藤原さんがやって来て「上瀧おまえ、すごくクロ釣ったなァ」から始まり、隣りでエッヘンしている空閑主任と藤原さんが魚釣りの話しを始めた。
「仕事そっちのけで釣りの話しができるなんてイイ身分だ」と想っている私。そして空閑主任が「上瀧、今度、会社の釣り部を作るヶ、お前が会計になれ」と、頭からイイつけるのだ。
④ 由美ちゃんと走った運動会
次の週、事務所に呼び出され、何かと想ったら、柚木専務が玉井政雄さんの原稿300P、2000部、印刷する契約が入り三ヶ月ほど会社が忙しくなるので、しばらく二階の活版植字課の宮村さんの加勢をしてくれ、との事だった。
それで、そばにいた宮村主任が聞く「玉井政雄さん知っとるか?」
私 「イイエ」
宮村 「玉井金五郎さんは?」 私「イイエ?」
宮村 「花と竜の小説、読んだことは?」 私「イイエ?」
宮村 「小倉の人間は、無法松の一生とか、その本を書いた、岩下俊作は知っているが、若松はもっと凄いゾ」
宮村 「火野葦平という芥川賞作家が今、若松に住んでいるのだ、知っているか」と聞く。
私 「黙っていると、」
宮村 「その弟が玉井政雄さんで、ちょくちょく会社に来とる、知らんのか?」
私 「・・・・・・」 つづけて、東映映画で、ときどき上映されている「花と竜」という映画を見たらイイかも知れんが、その舞台は北九州若松とか戸畑、そして洞海湾を紹介したもので「その主役の玉井金五郎は若松市議会議員を勤めた人間で、その息子、長男が玉井勝則、ペンネームが火野葦平さん、なのだ。その次男が玉井政雄。二人とも作家なんだ」と、
宮村主任が仕事をしながら教えてくれた。
宮村 「そんな凄い人が吉田印刷所を利用してくれているのだが、もっと凄いことが、この会社にあるのだ」
宮村 「お前に言っても分からないと想うが玉井金五郎、若松市議会議員より偉い、国会議員に吉田磯吉さん、という人が昔いて、その親戚が、この会社の初代社長の吉田万蔵さんで、今の吉田正人社長が二代目ということだ」分かるか?
私 「・・・・・・・」
宮村さん「吉田正人社長は国会議員の親戚でもあるし、元若松市長の吉田敬太郎さんの親戚にもなるので、社長は仕事以外で、凄く忙しい人で偉い人なんじゃ、分かるか」
私 「ハァー・・・・」と、あまり分からない私。
宮村 「まぁイイ、いずれこの吉田印刷所という会社が、いかに立派で凄い会社かを、少しずつ分かってくる」と、宮村主任は言った。
そういえば、この会社に北九州市長の谷伍平さんとか、市議会議長の三村さん、県会議員の○○さん、そして若い国会議員、麻生太郎さんが、新年会とか親睦会に良く来るようになった。
もっとも、選挙があるたびに全員集合で吉田正人社長の訓示があり、市長や議員が来て「バンザイ」をさせるので、何となく、宮村主任の言うことが分かる。
宮村主任と私との会話を聞いて「ウンウン」と、うなずいている内田さん「ジョーさんはイイ会社に入ったなァ」
私 「黙っていると、」
内田さん「今、私が入っている会社の社宅、家賃がたったの3千円。私営とか県営だったら2万円ぐらい必要なんだ。それで会社がなぁー、家賃の安い内、貯金し家を買えという事なんだ」
「それでオレも早く自分の家を持て、と、勧められるんだ。そんなイイ会社なんだ」
「さっきの宮村さんの続きの話しだよ」と、分かりやすい内田さんだった。
内田さん「ジョーさんが結婚したら、このアパートに住めるけど、長男のジョーさんは親と一緒に住むのか?」と聞く。
まだ20才になったばかり、しかも彼女もいない私。それに最近は釣りに夢中になっている。
とても、そんなこと考えられないのだ。そんな話しがボソボソあっても仕事ができている私。
すると宮村主任が、もっと難しい原稿を持って来た、ややこしい三菱化成の日誌を持って来たのだ。A3版の日誌で、文字とケイが多く、一日で、できないものだ。
それを、ゆっくりでイイから組めというのだ。どうやら試験されているようでイヤな仕事だ。
すると、そばで解版している女の子がやって来て、込みをたくさん入れてくれる。
5号、4号とか6ポ、9ポとかの込みもあり、正面のケイ棚にも奇麗に洗われたケイを整えてくれ、準備万端してくれる宮村主任だ。
そして隣りで「ジョーさんガンバレ」と応援してくれる内田さん。
分からんやったら何でも聞けと、宮村主任と内田さんだった。
解版の女の子がニコニコし、小さな込みを整理してくれ、ニヤニヤしていると内田さんが言う。
「そりゃーァ若い女の子が、そばに来ると緊張するのが男だ」と、読みすかしている内田さん。
そして少しずつ仕事が出来ていると内田さんが、
内田さん「ジョーさん、浜町小学校で運動会が来週あるんだ。それで私の代わりに出てくれんか。ワシは足が悪いので走れないんだ」
内田さん「娘の由美がリレーの選手になり、その親と一緒にバトンリレーするのが決まっているのだが、無理なら妻が出るそうだが」
私 「そうですかァー……」
内田 「由美がジョーさんと走りたがってるんだ」
私 「エーッ、そんなァ、親でもないのに」
内田 「それで由美が先生に聞いたら、兄さんでもイイと、言ってくれたらしいんだ」
私 「アーァ、絶対行かなァイカンことなった」
「イイよ、行くよ」
内田 「その運動会でナァー、会社の活版機械、主任の保里夫婦と一緒に昼めし食べることを決めてあるんだ。保里も一人娘の美由紀が浜町小学校一年生だろう、今度の運動会すごく喜ぶよ」「すまんなァー」と、内田さん。
二週間過ぎた日曜日、天気は最高。朝10時に浜町小学校に行くと、一番前の席で内田さん夫婦と保里夫婦がいた。
「ジョーさん、来てくれたんかー」で、まァ景気付けで一パイどうかと、もう二人とも赤い顔して盛り上がっている。
それで由美ちゃんの姿を追うと、六年生らしく係の腕章を付け、忙しそうに小道具の準備に追われていた。もう内田さんと同じくらい背の高さになり、大きくなったと思った。
そんな由美ちゃんが私を見つけ、手を振ってくれた。
それで、思い切って一般参加の障害物競走に由美ちゃんと参加した。
その競技はPTAの役員と学年選手、先生達が加わるリレーで、私は由美ちゃんと一緒の緑色のハチマキで、ラスト前の7番選手だった。
6番目に貰ったバトンを持ち、まず平均台、続いてアミネット、そして跳び箱8段は楽勝で、女の人を3人抜いてトップに出た、そのバトンを由美ちゃんに渡し、早い、早い由美ちゃん。
内田さん夫婦が大応援しているのが分かった。
しかし、ラストの女性が抜かされ2位だったが、リボンを回収する由美ちゃんが、私のオナカを突いてニコニコしてくれる笑顔が可愛かった。
目の大きな由美ちゃんは長い髪を二つに分け、ゴムで止めているから顔立ちがハッキリ分かり、クラスの人気者とすぐに分かった。
そして参加賞のボールペンを貰い、それを内田さんにプレゼントした。
お昼に入り、二家族合同の昼ごはん。私はビールが飲めないので、保里さんの奥様がオレンジジュース瓶をくれた。それに二家族の弁当は、巻き寿司とイナリがたくさん入った重箱。
奥様がいつも盛り合わせしている大好物のクジラのカラアゲが小さく切って食べやすい。
これをガツガツ食べていると、由美ちゃんが、大きなイナリを3つ皿に入れてくれ「ハイ、どうぞ」とくれる。保里さんの奥様も好きな酒を二合ぐらい飲み、夫婦で酔っ払っている。
そして、もう少しで得意な踊りがでそうな奥様の様子だったが、大勢の前ではしなかった。
そのぐらい、保里夫婦は賑やかしいのだ。保里さんの奥様と内田さんの奥様は姉妹。今日、来てない東さんの奥様がいたら三姉妹となるが、そんなことになると賑やかすぎて、この場に居られなくなるぐらい盛り上がる。
その姉妹の三兄弟が、私の人生を大きく変えてゆく事を今は知らない。そんな愉快な話しを聞きながら横で由美ちゃんが食べ物を優しく取ってくれる。

今日はラストで親子リレー大会がある。これは絶対頑張りたい。
そう思って、最終プログラムに入った。
学年対抗親子リレー、これに校長先生が加わる先生組と6組が走るのだ。
これで今年の5色、どの色が優勝するか、決まるかも知れない大切なリレーなのだ。
そのトップランナーが由美ちゃん。そのバトンを私が取る。
女、男、女、男、と、公平な選手がいる。
みんな選ばれた早そうな人ばかりだが、私は小学生のときリレーの選手だったし、中学生の校内マラソンでも600人中、いつも50番以内に入るから走りには自信がある。
緑のハチマキをした由美ちゃんが、スタートのカーブでコロンだ。
しかし、由美ちゃんが悔しそうにして4番でバトンをくれた。
しかし、200mの半周で上手くカーブが曲がれ、一番で次の女の子にバトンを渡すことができた。待っていた由美ちゃんがハイタッチしてくれて気分最高だった。しかし緑チームは2位だった。
それでもニコニコして退場門を出ると、もう一度、由美ちゃんが背中を押して「ありがとう」と言ってくれた。
私のリレーを見た内田さんと保里さん夫婦「魚釣りより走る方が上手い」とホメてくれるが、みんな笑顔イッパイになれた秋の運動会だった。
⑤ 若松五平太祭りと由美ちゃん
次の年の夏、仕事帰りに内田さん家に呼び出されて行くと、新しいリールを二つ買ったので、一つ私にプレゼントしてくれるのだ、と言う。
ダイワの磯釣り専用の高級リールで中々、私に買えないもので、欲しかったリールでもある。
それを貰えるのだ。
なんでも、私が「釣りに誘ってくれ、車に乗せてくれるので嬉しいのだ」と言う。
そばで見ている奥様も「たまにはイイことしないとね」ということで、夫婦でニコニコ笑顔だ。
それで今日も夕ご飯を頂けた。向こうの室で由美ちゃんが優しくピアノを弾き、すごく上手だ。
いつものようにテーブルにたくさんの惣菜が並び、いつも豪華だ。
すると、すぐに由美ちゃんがやって来て「お兄さんが来るときは、いつもご馳走なんだよ」と、私のそばで言う。
それで 「ジョーさん、好きな人は?」聞く奥様。
「私は、いません」とキッパリ言う。
会社で一緒に仕事をしている内田さんは、私の私生活を良く知っているようで、毎週、魚釣りしていること自体、女性はいない事を良く知っているので、当然のように「ジョーさんは女キライなんじゃ」と大きな声で言う。 そして大分、酒が入っているのが、すぐに分かる。
上機嫌のときは口調が早く、声が大きくなるのが内田さんのクセ。
そんな中、奥様が「今日は若松の五平太ばやしが銀天街であっているでしょう、行かないの?」
「ウン、まっすぐ帰ります」と答えると、
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内田さんが「由美を連れて行ってくれないかァー」と言う。
由美ちゃんが私を見つめて「行こう」と、誘っている瞳はすぐに分かった。
それでリールをもらったし、由美ちゃんならイイだろうと想い「OK」です、と言うと、すぐに着替えてやって来た。中学一年生の妹のような女の子に早変わりして、すぐに出発。
内田さん夫婦も凄くご機嫌だ。
社宅から歩いて15分で若戸大橋。
その下をくぐって行くと明治町銀天街に入ると、もう、たくさんの人々。
由美ちゃんは私の腕をつかみ、キョロキョロ探すお店。そして私を引っ張るように金文堂というレコード店に入った。好きなポップスがあって、レコードを探していると、カーペンターズのシングルレコードを買った由美ちゃん。
由美 「このカーペンターズね、兄妹で歌っているのよ。今、学校ですごく流行っているの」
私 「……………… 」
由美 「今度来たとき、聞かせてあげるね」
私 「ありがとう」
由美 「ジョーさんは何を聞くの?」と、始めて私のことをジョーさんって言った。チョット面喰って次の言葉がでない。それで、「ベンチャーズのエレキが好きで、十番街の殺人とかブルーコメッのブルーシャドー」
由美 「男子も今、エレキブームで、バンドを組む上級生もいるんよ」とかの話し。
金文堂のレコード店で1時間遊び、大通りの丸柏デパートから若松信用金庫の通りに、五平太舟が三ハイ通り、竹と太鼓を打つ音が、やたらと響く。その舟を引っ張る子供達が30人ほど。
両サイドの提灯もすごく華やか。丸柏デパートは、今日は午後10時まで開いている。
そんな通りを、いつか私達は手をつないでいた、というより私は気付いてなかったのだ。
今日は淡いクリーム色の半袖シャツに、赤いミニスカートの由美ちゃんだったが、髪にピンク色のヘアーバンドをして、すごく活発そうな女の子に見えた。
それで歩いていたら「ヨォー、ジョーさんじゃないか」と、会社の中原先輩から声を掛けられた。
中原 「やっとお前も女ができたか」と言われたが「内田さんの娘さん」と言うと「そうか、まだ子供やなァ」で、行ってしまった。
そして、まさかの柚木専務の奥様家族が私達を見つけ、
柚木専務 「ジョーさん、この子は」と聞かれた。
由美ちゃん「いつもお世話になっている内田小二郎の娘、由美と言います」としっかり答えた。
柚木専務 「ジョーさん、今からオレ達、丸柏の食堂に行くから、おごるけ行こう」と誘われた。そばに小学生の女の子と3才ぐらいの男の子がいたので、
私 「ありがとうございます、この次お願いします」と、一礼し、返事をして別れた。
街を歩くのもハラハラ、ドキドキの私。
なにより女の子と一緒にいることが恥ずかしいのだが、由美ちゃんは髪が長く、スタイルが良く可愛いので、通りすがりの人たちが私達を見つめていそうで、少し恥ずかしい。
そんな事お構いなしの由美ちゃん、私と一緒に歩くのが好きなようで凄く嬉しそうだし、楽しそうだった。午後9時まで祭り見物して家に送ると、又、上がれとウルサイ内田さんだ。
それで奥様と由美ちゃんに、さよならを言ってアパートを出た。
帰りの若松は祭り一色で、車が大渋滞し、若戸大橋は大混雑だった。
成人式を迎えることになった前日、社内で空閑主任が「上瀧ちょっと来い」と呼ばれた。
石橋のおじいちゃんの管理室に入り、いつものように、石橋のおばあちゃんが「上瀧さん、ハイお茶。そして、これはね、敏さん(空閑敏明主任)の、実家から送ってくれた柳川のウナギまんじゅうよ、食べて」と勧めてくれた。
そばで空閑主任が、お茶を飲みながら「上瀧、成人式おめでとう」と、お祝いのプレゼントをくれた。成人式祝いで始めて貰った物だった。
包みをその場で開け、キラキラ光るガラス細工のカフスボタンとネクタイピンセットが入った高価なものだった。
ニコニコしている石橋のおじいちゃん夫婦。
空閑主任が「大したものじゃないが、仕事と魚釣りに連れて行ってくれるお返しだ」と言って、素直に「ありがとうございます」と言えた。その日は残業だったが、気分良く、働けた。
そして週末、再び釣りに誘われたのは仕事を教えてくれる内田さんだった。
そして、すぐに一緒に行く仲間が揃った。二階の藤崎さん、森さんの4人で行くことになり、前の日から行くので「ジョーさん、夕めし食べに来い」ということで内田さん家に行くと、もう奥様が弁当まで準備してくれていた。
内田さんの奥様は恵比須市場に勤めているので、天プラとか、カラアゲ、クジラのアゲモノが、どっさりテーブルに並び、一人娘の由美ちゃんも、私と並んで一緒に食べた。
それを見て内田さん「ジョーさんが、うちの由美をもろうてくれたらエエノウ」と冗談を言う。
奥様も気さくな方で「しょっちゅうジョーさんの話し、釣りの話しをするんですよ」
そんな話しを聞きながら横目でチラッと見る由美ちゃんは、内田さんに似て、目がクルクルした美人。しかし、まだ中学生だ。
そして私のことを「兄ちゃん」と、いつも呼んでくれ、懐いているのは事実だ。
そして、魚釣りで足の悪い内田さんを迎えに行くと、いつも由美ちゃんがお父さんの荷物を車に入れてくれる。それで「私も釣りに行きたい」と言う。
そう言ったら内田さん「これは大人の遊びで、子供は遊べない」と注意しているのだ。
奥様が 「ジョーさん、重箱にたくさんお弁当入れているから主人と食べてネ」と言われて
私 「ありがとうございます」答え、すぐに出発。釣り場は山口県長門市青海島で若松から夜7時出発、途中の、はまや釣具店でオキアミ、ジャンボアミなどのマキエサや小物品など買い、やっと若戸大橋を渡ったのが午後8時。
これから戸畑、小倉の繁華街を抜け、門司の国道3号に入ると、スイスイ走れる。
関門トンネルを抜け、国道191号に入ると後は海岸通り。ひたすら長門市へ一直線。
信号も少なく、60Kで走るとドンドン追い抜かれる私の車。その中で、今日の釣り場の海は、内田さんのマイポイント。
内田さん 「青海島、静ヶ浦の波止はマキエでクロの25㎝サイズが乱舞してなァー、海タナゴの30㎝やチヌの40㎝オーバーが釣れる」
内田さん 「ジョーさんなんか、そばの道路から投げ釣りして27㎝のシロキスとか、タカバ(ハタ)を釣っちょるケ、投げ釣りもできる」と自慢話しが続く。
同じ職場の森さんは「そう想って、砂ケブ(虫)を50g買ってきた」ので、夜釣りで投げ釣りをするつもり。
内田さん 「ジョーさん、ポイント教えなァーと」
藤崎さんは「内田さんの隣りでクロの30㎝サイズを10枚ぐらい釣りたい」
藤崎さん 「サシミが旨いもんなァー」とかで、車の中は釣れる期待の釣りの話しが飛び交う。
長門市から仙崎港に入り、魚市場前の観光渡船場がある場所でトイレ休息し、すぐに青海大橋を渡ると、目的地の静ヶ浦の波止はすぐ。深夜10時着で、今から朝まで夜釣りする皆。
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深夜に釣り場に入ることで、誰もいない波止の好ポイントに陣取れる、というのが目的。
日中は釣り人が多くやって来る人気スポット。
そして、すぐに内田さんのチヌ竿5mから電気ウキがポイントに入り、マキエ作業が始まる。手際の良い内田さん。いつも準備万端で早い。
それだけ家で十分準備していて無駄のない動作はさすがだ。
すぐに内田さんの小型棒ウキが沈み、金メバルが釣れた。20㎝もある大物で高級魚。
ウキ下は2.5mとか。マキエでメバルが藻根から浮き上がってくるのだ。
メバルは目が大きく、夜釣りでも活動する魚で、ウキ釣りの人気ターゲット。
そして隣りで釣っている藤崎さんは、いきなり横走りするアジをヒットさせた。
右、左に走る青魚のアジは元気良く、この魚をキープできた藤崎さん、30㎝もある大型アジに感動。と想ったら、内田さんにもヒットするアジ。アジが回遊しているようで二人は入れ食い。
投げ釣りの準備をしていた森さんも、こっちの方が面白いと、森さんも磯竿出し、バタバタ準備し、やっと電気ウキを入れるころにはアジの群れが何処かに行ってしまい、その後、メバルとカサゴを1匹ずつ追加した森さん。
森さん 「それでも洞海湾の海では、こんな高級魚釣れんモンナァー」とかで嬉しそうだ。
アジを15匹以上もキープした内田さんと藤崎さん。安心したのか、その場で仮眠した。
9月は温かい、丸―イ月明かりがあり、夜目でも周辺の景観が見られ凄く静かな釣り場だ。
波止にビニールシートと新聞紙を厚く敷き詰め、寝袋に入り、ぐっすり寝た私達。
早朝の鳥達から起こされた釣り場。早速マキエを始めると、カモメが多く集まってくる。
釣りのマキエを拾って食べているカモメ達。ウキ流しで釣っている皆が「アッチに行け」と迫るが、潮の流れでマキエが沖に運び込まれると、その浮いたマキエを食べるのがカモメの食事なのだ。その事で魚達が浮き上がって来ない。
それでも午前中に内田さんは25~30㎝サイズのクロを20枚ほどキープ。
ハリス1号にヤマメ鈎9号、砂ゴカイ虫を1匹掛けした釣り。
その仕掛けタックルを真似た藤崎さんもクロを10枚にウミタナゴ、メバル、小ダイ、カワハギなど釣りまくり、18ℓクーラーは満タン。
私は近くの海岸から投げ釣りし、シロキスを15匹にベラ、カワハギ、小ダイなど30匹ほどキープでき十分満足。
森さんもキス、カワハギ。ウキ釣りでメバルやクロをたくさん釣ったので「やっぱり青海島やネェー」と全員、同じセリフが続く。昼過ぎ納竿し、今日は早めの帰宅ができたが、それでも3時間かかって若松に着いた。
すると、すぐに由美ちゃんがお出迎え。お父さんの荷物を社宅二階に運び、重いクーラーは私が運ぶ。大切な竿袋だけは内田さんが肩に担ぎ、左足の義足をかばいながら階段を上る。
森さん、藤崎さんも同じアパートの社宅で、それぞれの奥様とも顔なじみの私で、藤崎さんの奥様から「ジョーさん、家でお茶でもどう」とか誘われるが、私「すいません、内田さん家で、もう少し用事があるから」と断ったり、
森さん宅では女の子が二人いて、こちらも「兄ちゃん、釣れた?」とかで、パパっ子の女の子が、いつも森さんにベットリ。
森さんも「ジョーさんからシロキス釣らしてもろた」とかで、今日は、どちらの家族も魚の夕食がありそうだった。
そんな中、内田さんが「ジョーさん上がり」と、口うるさく迫る。
由美ちゃんが、すぐにお茶を入れてくれて「ハイ、どうぞ」と、由美ちゃんの好きなグリコのポッキーに、明治の板チョコをテーブルに並べていて、おもてなし、してくれた。
そして内田さん「来週、由美が通う、ヤマハ音楽教室の発表会があるので行ってくれんかね」
内田さん 「小倉の市民会館とか言うが、オレは何処か分からんし、しかも日曜日に仕事がある」
内田さん 「それでオレの代わりに行ってくれたら嬉しいんジャガー」
そばで、ジーィと見つめる由美ちゃんが、横目でチラーッと見て「困った」の私。
来週は空閑主任と魚釣りの約束がある。しかし、毎週魚釣りばかりで、会社の人と所中、付き合わされているし、仕事の延長線がズーッと続くのがイヤ、これが私のホンネ。
それよりも妹のような女の子の演奏会に行ってやる方が、いくら楽しいか。それに、どんな発表会かも興味あると頭の中で計算し、こっちに決めた。
私 「イイですよ行きます。で、目的地に何時に行ったらいいん、ですか?」
すぐに由美ちゃん「朝8時なの。ステージの準備とかあって9時までに市民会館に入らないといけないの」
由美ちゃん「私の演奏は11時ごろが予定」
これがプログラム、二部もらったので「お兄ちゃんに一部あげるね」と、凄く嬉しそうだった。
それを聞いた内田さん、すぐに「オレ風呂入るケ、後は由美と話しといてくれ」とかで、二人で向かい合って相談。4人用のテーブルに、旨そうな板チョコを割って「ハイ、どうぞ」で、お茶を入れてくれる、楽しそうな由美ちゃん。
今日はピンク色の半袖Tシャツに、赤いミニスカートは、この間のファッションで由美ちゃんのお気に入りらしい。
でも、中学一年生の女の子にしては背が高いし、スリムで可愛い妹のような女の子。その由美ちゃんからの釣りの話しは全くなく、全部、学校のこと、友達のこと、ヤマハ音楽教室に通っていること、今まであった発表会の事など、たくさんおしゃべりできることが、こんなにあるのかと想うほど、聞き役の私。私の世界ではありえない事を教えてくれる。子供の世界、イヤ、女の子の世界。30分も聞いていたら、内田さんが着替えて、スッキリしてテーブルに座り、
内田さん 「ジョーさん、風呂入り、イイよ」とか。それで、ここで帰ることにした。
由美ちゃんが車まで送ってくれて「来週の日曜日お願いします」と、軽く頭を下げ、バイバイした妹のような女の子。
⑦ ヤマハ音楽教室の定期演奏・発表会
次の日、会社に出社すると、出迎えていたように新聞を持った石橋のじいちゃんが大きなシャッターを開け、「早かったのー」とか言って、私「おはようございます」と挨拶したら、
じいちゃんが「敏(空閑主任)が、おばあちゃん室で待っとる」とか言われた。
すぐに作業着に着替えて行くと、
おばあちゃんが「朝茶が入っているので、おあがんなさい」と言われた。
素直に頂きますして、空閑主任がすぐに「昨日はどうやった?」
私 「アーハー、青海島のキスは少し、内田さんはクロにアジが大漁でした」の報告すると、
空閑主任「そうか、オレも行きたかった」とかで、空閑主任「マァ座れ」とか。
すぐに、おばあちゃんが朝茶に、ナシを剥いてくれて「サァー、どうぞ」
私 「ハイ、頂きます」と、大きなナシが半分もある。なんでも、石橋さんの実家から贈られてきた、とかだった。
その上で空閑主任が「ジョーさん、今週の日曜日、魚釣りに行かれんことになった」の話し。
それで私は「アー良かった」と内心ホッとした。空閑さんの奥様の、弟の結婚式とかだった。
そんな話しを聞いていたら、早速、事務所のマドンナ池田さんがやって来て、大きなヤカンに水を入れ沸かす。その間、石橋さんと、いつものおしゃべり。
私がソコにいたので「お坊ちゃまくん、何の話し?」と、すぐにチョッカイをかけてくれる池田のお姉さん。又、何か言われそうなので、すぐに室から出た。
そして今週も残業が毎日、午後8時まで続き、やっと週末の土曜日、内田さんが、わざわざ機械場の職場に来て「ジョーさん、明日頼むなァー、オレは仕事で行かれんけど妻が行くので頼む」とかを聞いて「OKです」のサインをした。そして、この日は真っ直ぐ家に帰った。
久しぶりに釣りに行かない事を知る母が「明日、家にいるの?」
私 「イヤ、友達の家に行く約束がありそうなので」で、会話なし。
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早朝8時前に内田さん家に行くと、ステージデビューの由美ちゃん。
白いフレアがたくさんついたピンク色のワンピースに、長い髪を一つにまとめた大きなピンク色のリボン。白いソックスと、淡いピンク色の靴で、フランス人形のような大きな瞳の女の子に、すごーィ変わりよに驚いた。
奥様が 「少し淡い化粧しているのでカワイイでしょう」と言う。私は声が出ない。
その女の子が、私のマイカーの助手席に座り、奥様は後部席に座って出発。
その間、今日のプログラム、ステージの話し色々。
私は、ほとんど聞けてなかったが、どんなステージで由美ちゃんが演奏するのか、まだ分からないのが不安で自分は、ただ見るだけ?。
マァイイか、内田さんの代理の気持ちで、小倉勝山公園前の駐車場にすんなり入れ、市民会館のホールに入ると、人が多く、ごった返している。
長いカウンター席の受付に入る、お母さんと由美ちゃん。
その後からついて行くと、すぐに由美ちゃんの先生がやって来た。
先生 「素敵なファッションじゃない、いつもの由美さん、じゃないみたい」
そして、お母さんに挨拶してから、チラッと私を見て「この方は?」
すぐに由美ちゃんが「お兄さんです」
先生 「貴方にお兄さんがいたの?」と、少し驚いた様子。
しかし、そんな事より由美ちゃんが今からステージで演奏する事が大切なので、すぐに先生と由美ちゃんが控室へ行った。
由美ちゃんの先生は、まだ若く30代ごろで、紺色のスーツで、胸に白い大きなリボンフラワーを付け、スタイリッシュな方。
内田のお母さんが、「ヤマハ若松教室の先生で、今は小倉の教室で主任教師とかで、若いとき、オーストリア・ウィンの音楽学校、ピアノ部門で入賞した事もある先生」、そんなすごい先生とかの話しだった。しかし、由美ちゃんが習っているのは電子オルガンタイプで、少し音色が違う気がするのだが、ここのところ良く分からない私。
そして私達は指定席のG35番の席に座ると、ちょうど正面が見える中央席ごろで、由美ちゃんの演奏は11時ごろ。その会場には若い人ばかりで、やっぱり家族的な子供、学生が多く、ステージ衣装の女の子がたくさんいたので、この子達もステージに上がるのだろうけど、由美ちゃんはステージの打ち合わせとかでいない。
そしてプログラム12番の、由美ちゃんのステージが始まると、三台の電子ピアノ前に、中央が由美ちゃん。右、左に、それぞれ中学生の女の子がいて、三人で同時に合奏するようで、曲は「ブラームスの子守歌」という曲。その前に司会者が三人の名前を言って深く挨拶する由美ちゃん。
それと同時に拍手。そして6分ほどの奇麗な優しいピアノ三重奏が大きなスピーカーを通して会場に流れ、凄く心地良い気持ちで聞いた。
演奏が終えて、もう一度、三人の演奏者の名前を言って、大拍手。
お母さんが感激して涙目。でも、こんな大きなステージで演奏でき、大勢の人から拍手をもらうのだから、やはり凄い。わずか15分ほどのステージだったが、それでもすごーィと思う私。
しばらくして由美ちゃんが36番の席に座り「上手でした」の楽しいコミュニケーション。
お母さんが「お父さんに見てほしかった」とかのこともあったが、上手に弾けた由美ちゃん。
由美ちゃん「すごく緊張したんよ」
由美ちゃん「でも、井村先生が、上手に弾けたよ、すごく良かったと、ホメてくれたのよ」と、楽しそうに話すと、お母さんが再び涙目。12時30分から30分の休息タイム、でも席に座り、お母さんが準備してくれたサンドイッチを頂いたりして、最終プログラム41番が終了した午後3時30分。すぐに今日の大賞と金賞の発表。
残念ながら由美ちゃんには無かったが、それでも十分満足の私達。市民会館ホールを出るとき、再び「由美さん」と声をかけてくれた、
井村先生 「今日は遅くまでありがとうございました」
井村先生 「由美ちゃん、ときどき小倉にも来てね」と、すごく優しそうな先生だった。
そして午後6時、内田さん家まで送り、帰ろうとすると、
内田さんが、わざわざ出迎えてくれて「ジョーさん、チョットだけ上がり、お茶だけ飲んでよ」で、仕方なく靴を脱ぐと、応接間のテーブルにデッカイ寿司が三つも並んでいた。
お母さんも知らなかったようで「まァ座ってよ」の内田さん。
今日は由美の初舞台のお祝い、それで、いつも自分が通っている栄寿司に出前してもらった。
遠慮なく食べて、ジョーさん」
内田さん 「それに自分だけ旨いもん食って悪いので、たまにはお前(お母さん)食わさないとバチあたる」とかの話しで嬉しそうな内田の奥様。
内田さん 「それより、どうだった由美は、上手に出来たか?」
お母さん 「井村先生が凄くホメていました。それに由美の衣装が凄く似合って可愛らしいと言っていた」ウンウン聞きながら、自慢の娘を見て「大分、大人になった」とか。
由美ちゃんは、すぐに着替えて、黄色のTシャツに紺色のミニスカートで私の横にチョコんと座り、お茶を入れてくれた。まだ後ろ髪だけは大きなリボンを付け、ポニーテールしているが、凄く清楚で可愛い妹?。
小倉市民会館であったヤマハ音楽教室発表会の話しが終わると、もう魚釣りの話し。
「今週は仕事で釣りに行けんやったので、来週は何処に行く?」と、しつこく聞く内田さん。
釣りクラブで国東半島、伊美港が決まっているので、その内合わせとかの長―ィお話し。
そんな話しをすると、内田さんの目がキラキラ輝いて、しつこくなってくる。
やっぱり釣りキチなんだと想うが、それより由美ちゃんが小皿に、私の好きなイカ、タコ、カニ玉、玉子の寿司を入れてくれるのが嬉しくて、これを素直に食べて、お腹イッパイ。
お母さんが「ジョーさんは魚さんが苦手なのね」
私 「ハイ」
内田さん 「由美は、ようジョーさんが好きな寿司、知っとるナアー」
由美ちゃん「いつも一緒に食べてるから」
「そうかァー」と内田さん。充分、内田さんの話しを聞いてやり、午後7時までの長―ィお付き合いを済ませ玄関を出ると、夕日が沈みそうな景色になっていた。
車まで送ってくれる、お母さんと由美ちゃん。
お母さんが「これ油代」とかで封筒をくれたが、
私 「頂けませんから、いつもご馳走になってばかりで」とか言ったら、無理やり私のポケットに入れてくれたお母さん。 「すいません」と小さい声で言ってから、
由美ちゃんが「お兄さん、今日ありがとう」と、ニコニコ笑顔で手を振ってくれた。
長い一日だったが、何故かしら内田さんファミリーには温かいハートがあって歓迎される。
それに、我が家には、ない心地良さを感じる私だった。
そのような内田さんファミリーに、少しだけ関わっている私がいた。
⑧ 車イスの夫婦
そのような仕事と魚釣りが続き、4年が過ぎた。
そして、内田さんファミリーは会社を辞め、若松二島の阪本印刷所に勤務先を変え、若松県営用勺団地に引越した。
その理由は、持病の糖尿病で足が不自由になり、今は車イスの生活。
それで階段のある社宅には住めない。その事で会社を辞め、障害者用の施設で、なんとか仕事ができ、ぼつぼつだが好きな釣りをしているのだった。
それでも私達の関係は続いている、趣味で結成している海洋磯釣倶楽部の相談役という肩書の内田さん、だからだ。それで、ときどき内田さん家に遊びに行くと、いつも大歓迎してくれる。
奥様は恵比須市場で、たくさん買った惣菜を並べ、いつも「さァ食べて」と夕食をご馳走してくれる。そして内田さんは、好きな酒を出せと、うるさく奥様を責めたてる。
病院から止められている酒とタバコは中々やめられない、そうで、「今日だけは少しだけ飲ませろ」と迫るので、奥の戸棚からコップ一杯の酒を出してもらいチビリチビリ飲みながら釣りの話し。
内田さんが単身で通う、洞海湾は油臭い魚が釣れて食べられない、それで私に聞く「最近どこに釣りに行った」と、ボソボソ答えながら釣りの話しが弾む。
そして、勉強を終えた由美ちゃんがやって来て、一緒に夕食していると、なぜかしら奥様が涙を流しながら何にも言わない。
すると内田さん「由美、ピアノ、少し弾いてみ」と、うるさく由美ちゃんに迫る。
仕方なく奥の室にあるピアノを弾く由美ちゃん。
「モーツアルトのエリーゼのために」を流れるように弾く由美ちゃん、すごく上手だ。
小学二年生から家に電子ピアノがあり、ヤマハの音楽教室に通っていたので、やっぱり上手だ。
そして由美ちゃんは今、若松高校一年生。
長い髪に大きな瞳。スラーッとしたミニスカートが似合う奇麗な女の子になったと、私が想う前に、内田さんは自慢の娘を、私に見せびらかしているかのようにも想える。そんな由美ちゃんが、いつも私の隣りにチョコンと座り、お茶を入れてくれた。
いつもなら「お兄ちゃん」と呼んでくれるのだが、今日はなかった。
三人家族、チョット淋しそうな関係。これも内田さんの病気が原因であることが良く分かる。
それでも私が遊びに行くと、なぜか内田さんは盛り上がってくれ、家族が大歓迎してくれる。
そんなお付き合いが、もう7年続いている。
これも趣味の魚釣りのおかげだ。
そして今日、内田さんと会った事を釣りキチの課長や、釣りクラブ、皆に言おうと想っている。
3月に入った会社の昼休み、釣り仲間の、大場さんから声を掛けられ「ジョーさん、内田さんの家行った?」
私 「先週行って、夕ご飯ご馳走になって、内田さんは元気でしたよ」
大場 「そうかジョーさん、その内田さん、ながくないそうだ」との話し。糖尿病が悪化し本当は入院だけど、本人が病院に行かん、と言っているそうなんだ。
それで困っている奥さん、なんだけど、もう先が見えている、との噂もある。
そんな話しを始めて聞いた私。
それでこの間、行ったとき由美ちゃんが淋しそうだったし奥様が泣いていたのだった。
そんなことを聞いたので、思い切って海洋磯釣倶楽部、会長の保里さんに相談したら、釣り仲間を誘い高塔山で花見会をしようと決まった。

4月初めの若松、高塔山で海洋磯釣倶楽部が主催して家族慰安会の花見会を開催。
この日は43人の家族が集まった。
私は内田さんファミリーを迎えに行き、高塔山頂上の広い芝生広場でカラオケ大会も企画した。
その中で釣りクラブ会長の保里剛太郎さん、東登さん、そして内田小二郎さんは、みんな義兄弟。奥様が三人姉妹なのだ。そのファミリーに私のような独身者が8人も加わり花見が始まる。
山頂は桜吹雪が舞い、コップ酒に桜の花ビラが入った人は今年は縁起がイイ、大漁と大騒ぎする仲間達。保里会長の奥様は今、踊りの師範を目指しているので日本舞踊が上手い。
早速、東さんのカラオケの歌に混じって自慢の花笠道中が始まり、保里会長は、なぜか国定忠治の歌舞伎ストーリーに入った。
そんな賑やかしい花見に、いつも奥様が車イスの内田さん、そばについていた。
好きな酒があまり飲めないのが残念だったが、チョコットぐらいはイイだろうと、東さんが盃に少しだけ注いでヤルと、喜んで飲む内田さん。
カラオケも一人一曲が回されるころ、由美ちゃんがソフトテニスをしよう、ということで始まると、次々に女の子が群がり出来なくなった私達。
それでも大勢の中で遊び、美味しいものを食べ、話しができている内田さん夫婦、そして可愛い由美ちゃんが、いつもそばにいた。
⑨ 洞海湾と白い砂山
毎日、残業が続き、深夜0時になる吉田印刷所の仕事も慣れてきて、今月は100時間を越えそうな勢いだ。そんな時は決まって柚木専務が平版機械場にやって来て「事務所にコーヒーがあるので勝手に飲んでくれ」と言ってくれる。
それに時々ポケットマネーで「ジョーさん」と言って、夜食を買ってこい、と、お札をくれる。
又、事務所のマドンナ池田さんが「社長からよ」言って、菓子をドッサリ持って来てくれたり、頂きものの缶ジュースや缶コーヒーを持って来てくれる。
とにかく事務所からの頂き物が多い。
これは私達のような若者が仕事で一生懸命ガンバリ「納期通りの仕事が出来ているからだ」と、空閑主任が、いつも言う、そして若い私達をこき使うのだ。
今日はA全判の北九州市政だよりを32万部、両面印刷している。
そして、すぐそばの製本場では、印刷したすぐのものを、折り機で8つ折りし、切り、包装する作業を年輩のおばさん達が深夜10時まで。男性は0時まで仕事をしているのだ。
そんな仕事が毎月の6日間ある。まだ土曜日が休みなどということは15年ぐらい先の話しだ。
今日は深夜5時まで残業し、工場の中で寝た。
そして翌朝7時には、そばの寮で朝食を頂いた。
その寮母が三宅のおばさんで、私のおふくろと同じ年。
その三宅さんに三人の子供がいて、長男が会社の植字組版をしている。
そして私と同じくらいの女の子は、小倉の東芝に勤めていると聞いた。
そんな若者が入れ替わり朝食をしているとき、カラーテレビから「洞海湾で車イスの男性と夫婦とみられる女性の死体が上がった」と、ニュースが入った。
洞海湾と聞くと、みんな食べるのをやめて、食い入るようにニュースを見ているが、今、身元を調査中ということで、その続きはなかった。

そして次の日、車イスの夫婦は、あの内田さんということが分かった。
その日は会社で、その話しが持ちきりであったが、私は黙って、その日の仕事を終え帰宅した。
次の日の夜、内田さんの義兄の東さんから電話で「ジョーさん分かっていると想うが、内田が亡くなり明日が通夜、その次が葬儀で、保里会長も今ここにおる」と告げられた。警察署で身元確認があり、今、用勺のアパートに二人が帰って来ている事を聞いた。その夜、内田さん家に行くと東さん夫婦と由美ちゃんが泣いていた。
小さな祭壇に二つの棺桶。なにも言えないまま手を合わせるしかなかった。
後ろで東さんが「娘を残して死ぬか」と、吐き捨てる。
それを制止する東さんの奥様。
横浜から来ている、内田さんのおばさんご夫婦が由美ちゃんを預かるそうで、遺言書も三通あったそうだ。釣り仲間とか会社に迷惑かけたくないので、家族で送ってほしいとあったそうだ。
「しかしジョーさんには知らせとかんなイカン」と東さんがポツリと言った。
奥の室にある由美ちゃんのピアノ、その上に私が由美ちゃんの誕生日プレゼントしたフランス人形が置いてあり、私達を優しくみつめ、微笑んでいた。
次の日の通夜、喪中の家に行くと保里会長や釣り仲間がたくさん来てくれ、少しホッとした私。
そして、二人の義兄弟夫婦が接待していたが、奥の室に閉じこもった由美ちゃんは出てこなかった。その中で釣り仲間がボヤク言葉は「内田さんからクロ釣りをたくさん教えてもろうたなァー」とか、「あの人は釣りが上手やった」等々を聞きながら、正面の二つの遺影を前にして、次の言葉が出なかった仲間達だった。
そして葬儀日の午後、会社を早退し、内田さんの家に行くと、ご近所の人々が大勢いで、家に入れないぐらいだった。それでも奥から保里さんの奥様が呼んでくれ、なぜかしら親族の席に座り、手を合わせた。そして軽い棺を霊柩車にのせ、近くの北九州八幡西区本城の火葬場まで行き二人を見送った。そのそばに由美ちゃんがいて悲しそうだった。ひっそりした家に戻り、横浜の内田さんの弟夫婦が、これからのことを話してくれたが問題の由美ちゃんのことだけは、しっかり聞いた。
内田さんの遺言通り、数日で由美ちゃんは横浜に行くことになっていた。
それで今日がお別れということになった。
そして「ジョーさんに使ってほしい」と、内田さんの愛竿が二本、私に頂けた。
夕方、一緒にどうか、という食事も遠慮し家を出るとき、
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由美ちゃんが車の側まで見送りに来てくれた。目に涙をいっぱい抱えて、物凄く可愛そうだった。ポケットにあったバラの刺繍ハンカチを由美ちゃんに渡し、優しく両肩を添え、いつでも由美ちゃんの事、気にしているからね、と伝えた。後から東さんの奥様が来て「又、会えますよ」と言って、由美ちゃんを抱きしめていた。
毎日の通勤に時々使う会社前の遊歩道は、洞海湾に沿って若松港まで続く。
その海岸線にはガードレールとか、柵などなく、潮が引くと10mぐらい先までゴロタ浜が出てくるが、石ころとか岩盤に付着したヘドロが固まり黒いのだが、ワカメが付着するときもある。
そして、その海岸の一番の見どころは一ヶ所だけ砂山が出来るのだ。
お城の石垣のように組まれた護岸から、高さ2mから3m下がゴロタ石だが、その砂山は遊歩道から40㎝高さでおりやすく、干潮時は、ここだけ奇麗な白い砂浜の洞海湾が見られるのだ。
その砂山が好きだった私。そして内田さん夫婦も、ここに良く散歩に来ていた居場所だった。
その遊歩道から砂山に続く海岸を見ながらボーッとしていると、その砂山に、二つの車の後、そして足跡が海に続いているようにも見えた。
車イスに乗った内田さん、それを押す奥様、その影が夕焼けに染まった朱色の若戸大橋を映し出し、薄茶色の洞海湾がマッチして暗い影がより一層グレーに染まり、海面だけがキラキラ輝いて見えた。その場所で私は手を合わせ、内田さんが好きだった酒を白い砂に捧げ、もう一度、手を合わせる私だった。
⑩ 横浜で由美ちゃんの結婚式と披露宴
その6年後、横浜で由美ちゃんが結婚することが決まり、東さんが
「私も行くので、ジョーさんも一緒に行ってくれないか。できたら内田の友人代表として披露宴の挨拶をしてくれないか」ということだった。
経費は全部、東さん、そして保里さんが負担し一緒に行ける事だったので、行くことに決めた。
それよりは6年ぶりに会う、由美ちゃんに会いたかった、かも知れない。
そして、お祝い金を大奮発し準備した。
出発日の前日、会社帰りの若松高塔山に上がり、桜のツボミが五分咲きの枝を、小さく切って二本、大切に持ち帰った。
結婚式がある横浜パークホテル会場は100人ほどの来賓者で賑わっていた。
久しぶりに礼服に着替えた私に、新婦の由美ちゃんが6年ぶりの私を見つけ、やって来た。
大きな目で私を優しく見つめてくれ「来てくれてありがとう」
「由美ちゃん、おめでとう」と、たった一言しか言えなかった。
そして、あのとき会った内田さんの、弟ご夫婦も来て、
「上瀧さんの噂話しは、たくさん由美ちゃんから聞いています。本当にありがとうございました」
私 「イエ、私も内田さんご夫婦、それに由美ちゃんとも、家族みたいに仲良しでした」
そんな楽しいお話しもわずかで、次々に奇麗な新婦を見ようと、挨拶に来る人々だった。
そして、なぜかしら親族でもないのに保里さんの隣りに座らされた。
由美ちゃんの結婚式がチャペルで始まり、背の高いカッコイイ男性にキスされている由美ちゃんを見て、私はこれで内田さん夫婦のことを忘れることができる、と想った。
披露宴は100人ほどの招待客が、丸いテーブルを囲んで座れるが、やっぱり私のテーブルは最後部の保里さんの隣りである。
その中で二つ空いた席に写真が二つあった。
内田さん夫婦の写真、そして花束がある、その席前にコップを二つ出してもらい、水を注ぎ、高塔山から持って来た桜の枝を入れた。
ピンク色した桜のツボミが冴え、あのときの花見会が想いだされる。
そして何故かしら保里さんが「ジョーさん、ありがとう」言ってくれる。
内田さんご夫婦の写真が、正面の娘、由美ちゃんを優しくみつめ微笑んでいた。
そして、いよいよ私が内田さんの友人代表として挨拶することになり、予め考えていたメッセージだったが、雰囲気にのまれ、今、頭に浮かんだことを素直に述べた。
「趣味の魚釣りでめぐり会えた内田さんご夫婦と、家族同様な関係でした、そして新婦の由美ちゃんは、本当は私が頂く予定でした」
と言うと、会場から拍手が沸きでた。
少し恥ずかしいところでメッセージが切れたが、
「先程、カッコイイ男性とキスしているのを見て、とっても悔しかったです。絶対手放さないで下さい」と言った。
このメッセージは大変受けて大拍手。
ピューピュー口笛が鳴って良かったが、中央のステージから由美ちゃんが私を見つめてくれて、凄くはずかしかった。
東さん、保里さん夫婦が「ありがとう、ジョーさん」と言ってくれ何度も握手、そして、なぜか大きな責任が果たせたようで幸せ気分になれた一日だった。 1977.4.
第三巻 車イスの家族 完
釣りを趣味にした私は、仕事の延長線にあるものとして、人間関係の最も大切なコミュニケーションを活かした、アクションプログラム。活力を得た釣り人が混じり合い、釣り仲間を利用した。言い方は悪いが、互いのメリットは、好きな釣りを楽しめてこそ、生きがい。仕事に励みができ、家族を幸福にさせる責任を持ち、その仲間達にも同等に遊べ、幸福になってほしい。その願望が人並み以上に強い私。フィッシングライフを家庭から企業会社へ持ち込み、仲間作り、お世話係イコール、ボランティア、ハートの志は身体が続く限りやり抜く。アナログの人間だが、ジャパン特有の義理人情に、おもてなしの心意気を感じたい、でもデジタルは止められない。マイファミリー第三巻、「車イスの家族」如何でしたでしょうか。この小説は9割本当にあった事です。海洋磯釣俱楽部のページでご覧下さい。なを写真は妻の洋子ちゃんと家族です。最後まで読んで頂き、ありがとうございました。 大和三郎丸 (上瀧勇哲)

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