2025.5再編集マイファミリー・シリーズ上瀧勇哲想い出小説 mujik夏川りみ(涙そうそう)05

大和三郎丸の生い立ちを描く、小説・マイファミリー・シリーズ、お楽しみ下さい 

No.1.「竜神伝説と初恋」幼少期過ごした自然美豊かな小倉守恒で知り会えた桜井直樹とゆりちゃんの物語(完結編)
No.2.「年上の人」高専から若松の会社に勤め始めたとき、若戸大橋で知り会えた年上の人に恋心 (1〜4編)
No.3.「車イスの家族」吉田印刷所勤め私20から釣師匠と仕事に家族的な付合い娘の由美ちゃんと(完結編) 
No.4.「海洋磯釣倶楽部の生い立ち」吉田磯釣クラブから海洋磯釣俱楽部の世話係で絆社会を知る(1〜3編)
No.5.「他人の子」北九州小倉駅で声かけられ14才頃の女の子 小倉案内、まさかのホームステイ(1〜4編)続
No.6.
No.7.
No.8.
  マイファミリー シリーズ   はじめに 作者の私 上瀧勇哲の紹介

私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市小倉で生まれ育ち24才で、洋子ちゃんと結婚し若松で10年凄し二人の子供が生まれた。そして小倉南区志井に住まいをかえ18年住んだ。しかし会社が倒産し、行橋市の田中印刷所に勤め始めた事で、今の福岡県行橋市元永に住んでいる。

その上瀧名は、市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、その地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。

そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者となるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている小倉・浄土真宗正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎ、名前負けしていると、信仰熱心な父から良く言われた。

それで、上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えて、もらうのが大変だった。

その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成に大活躍した上瀧和則さんだった。

競艇の選手で、日本一を決めるジャパンカップを2度も制覇した名選手。年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから、彼のことを良く聞かれた。私より12才ほど年下で、大活躍した選手で、今は全国競艇選手会の会長をしているそうだ。しかも遠縁の親戚だから、話のネタに欠かせない存在だった。

しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでも、と言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気でクソ真面目。これは母方の祖父に似ているが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。

そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、勝手に付けた。そのペンネームを使い、30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると、鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり、豊かな米作りができた処。そして三郎は人名、丸は所を表すので、三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め、米作りに励んだ、と云うのが定説で豊前国小倉藩に記録されている。

さて、昭和25年2月生まれの私は、母方の祖父、牛島栄六が北九州市小倉南区守恒で酪農兼農業を営み、所有する山が二つあり、その山の麓の実家で生まれた。牛島家、上瀧家の初孫として生まれた私は祖父の家で紅白の餅をつき、大勢の村人が来て祝ってくれたと、母が自慢して言う。

そして父が営む畳屋は小倉北区三萩野三郎丸にあり、ここで生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。 また、少年から青年、大人になるストリーには厳しく、悔しい思いを何度も経験した。生きる為に、人間は生真面目と努力、人とのコミュニケーションが必要である事を、社会人になり、それを利己的に実行した。そして青春時代は思いっきり楽しんだ。その事を少しばかり紹介し、僅かばかりの時間の中で生き綴た、喜びと悲しみのストーリーを皆さんにアピールし、私という人間を形作ってくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びと幸福を教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。私の青春物語をPRしたい。

趣味が縁で浦本洋子ちゃんと知り会え2年間の交際で結婚した彼女は19才、津多恵お母さんから「早すぎる結婚」と言われたが、私の誠実さに愛の深さを知り、認めてくれた優しいお母さんが、大好きだった。


彼女、洋子ちゃんと結婚して二人の子供で生まれた。まだ20代の洋子ちゃんは美しく輝かしい妻だった。

北九州市若松区若戸大橋、写真は若松漁港、そばに若松橋台下遊歩道、この町で多くのロマンスが始まりドラマが生まれた。私の道しるべを教えてくれた女性に、ファミリーなしでは語れないストリーがこの町にある。

高専を卒業し北九州市若松の吉田印刷所に勤め始めた私は19才。その会社から若戸大橋橋台下まで12分、この時代は若戸大橋一車線、若松橋台上にバス停があり、ここから小倉三萩野から若松へ通勤していた私。もう一車線は戸畑に繋がる遊歩道が左右にあった。中の写真は会社前の洞海湾遊歩道、右の写真は洋子ちゃんと10年過ごした会社アパートには32軒の家族、恩師、釣り仲間が住んでいた。








































2021〜2030
フィッシング,ライフ 上瀧勇哲の軌跡

 小説 マイ・ファミリーシリーズ

       ペンネーム 大和三郎丸 (上瀧勇哲)

車イスの家族9
年上の人1
1海洋の生い立ち
1他人の子
竜神伝説と初恋23