|
私の名前は上瀧勇哲、九州北部にある百万都市、北九州市小倉で生まれ育ち24才で、洋子ちゃんと結婚し若松で10年凄し二人の子供が生まれた。そして小倉南区志井に住まいをかえ18年住んだ。しかし会社が倒産し、行橋市の田中印刷所に勤め始めた事で、今の福岡県行橋市元永に住んでいる。 そして勇哲(ゆうてつ)名は、勇ましい哲学者となるのだが、これは祖母がお寺参りで好きになった、檀家としている小倉・浄土真宗正圓寺のお坊さん、小手川勇哲さんの名前を、そのまま譲り受けた名であり、勇哲は、ありがたすぎ、名前負けしていると、信仰熱心な父から良く言われた。 それで、上瀧も勇哲も、学生の頃は嫌いで、名前を覚えて、もらうのが大変だった。 その上瀧名をPRしてくれたのが昭和から平成に大活躍した上瀧和則さんだった。 競艇の選手で、日本一を決めるジャパンカップを2度も制覇した名選手。年間獲得賞金ランクは2億円以上、当時のスポーツ紙で名前が出ない日はなかった有名選手。そのことで仕事仲間や親戚、近所のギャンブルファンから、彼のことを良く聞かれた。私より12才ほど年下で、大活躍した選手で、今は全国競艇選手会の会長をしているそうだ。しかも遠縁の親戚だから、話のネタに欠かせない存在だった。 しかしながら私はギャンブルを一切やらない、酒も飲めない、そして男なら噂の一つでも、と言いたい女性関係は妻だけ、しかも正直で生真面目、大人しく引っ込み思案、マスクも決して良いとは言われない母似であり、気性は短気でクソ真面目。これは母方の祖父に似ているが、このことが幸いし今の自分があるのかも知れない。 そしてペンネームの大和三郎丸は、いわゆる日本人である大和、三郎丸は私が生まれ育った地名をもらい、勝手に付けた。そのペンネームを使い、30年あまり何も変化がないのだが、北九州市小倉三萩野三郎丸の町名を検索してみると、鎌倉時代からの荘園地、田園が広がり、豊かな米作りができた処。そして三郎は人名、丸は所を表すので、三萩野は三人の子供、その三男の三郎がこの地を収め、米作りに励んだ、と云うのが定説で豊前国小倉藩に記録されている。 さて、昭和25年2月生まれの私は、母方の祖父、牛島栄六が北九州市小倉南区守恒で酪農兼農業を営み、所有する山が二つあり、その山の麓の実家で生まれた。牛島家、上瀧家の初孫として生まれた私は祖父の家で紅白の餅をつき、大勢の村人が来て祝ってくれたと、母が自慢して言う。
その上瀧名は、市のNTT電話帳を開いても五~六件しかない。上瀧は(じょうたき)と読むのだが、佐賀県佐賀市から大和町につづく小城市に多く、その地名ではありふれた名として現存する。他にカミタキ、コウタキ、ウエタキと、色々な読み名はあるが、ベースは同じと想って間違いない。
そして父が営む畳屋は小倉北区三萩野三郎丸にあり、ここで生まれ育った私の物語には、その当時、出会えた、たくさんの人々がいた。 また、少年から青年、大人になるストリーには厳しく、悔しい思いを何度も経験した。生きる為に、人間は生真面目と努力、人とのコミュニケーションが必要である事を、社会人になり、それを利己的に実行した。そして青春時代は思いっきり楽しんだ。その事を少しばかり紹介し、僅かばかりの時間の中で生き綴た、喜びと悲しみのストーリーを皆さんにアピールし、私という人間を形作ってくれた大切な人々は、生きるステージ、喜びと幸福を教えてくれた恩人とし、紹介する事ができる。私の青春物語をPRしたい。
趣味が縁で浦本洋子ちゃんと知り会え2年間の交際で結婚した彼女は19才、津多恵お母さんから「早すぎる結婚」と言われたが、私の誠実さに愛の深さを知り、認めてくれた優しいお母さんが、大好きだった。
彼女、洋子ちゃんと結婚して二人の子供で生まれた。まだ20代の洋子ちゃんは美しく輝かしい妻だった。
北九州市若松区若戸大橋、写真は若松漁港、そばに若松橋台下遊歩道、この町で多くのロマンスが始まりドラマが生まれた。私の道しるべを教えてくれた女性に、ファミリーなしでは語れないストリーがこの町にある。
高専を卒業し北九州市若松の吉田印刷所に勤め始めた私は19才。その会社から若戸大橋橋台下まで12分、この時代は若戸大橋一車線、若松橋台上にバス停があり、ここから小倉三萩野から若松へ通勤していた私。もう一車線は戸畑に繋がる遊歩道が左右にあった。中の写真は会社前の洞海湾遊歩道、右の写真は洋子ちゃんと10年過ごした会社アパートには32軒の家族、恩師、釣り仲間が住んでいた。